富田鉄之助と福沢諭吉2018/08/17 07:14

 吉野俊彦さんの本とどちらが先だったか忘れたが、富田鉄之助については、 福沢諭吉との関係でも知った。 日銀総裁や東京府知事になるより前のことで ある。 『福澤諭吉事典』の松崎欣一さんの解説を見ておく。

 富田鉄之助は、天保6(1835)年に仙台藩士富田実保の四男として生れ、安 政4(1857)年藩命により砲術修業のため江戸に出て、文久3(1863)年勝海 舟に入門、慶應3(1867)年7月には、庄内藩士高木三郎と共に海舟の子息勝 小鹿に随行してアメカに留学した。 福沢と交流のあった仙台藩江戸留守居役 の大童信太夫の尽力もあり、藩から年一千両の学資金が支給された。 幕府公 認の留学第一号でもあった。 滞米中に幕府の瓦解と東北の争乱を知り、明治 元(1868)年11月いったん帰国、翌2年2月には再びニューヨークに戻った。  3年11月、のちに商法講習所に招くこととなるホイットニーが校長を務めるニ ュージャージー州ニューアークの商業学校Bryant Stratton & Whitney Business College に入学した。 4年2月ニューヨーク在留領事心得を命ぜら れ、6年2月には副領事に任じた。    7年10月賜暇帰国し、杉田成卿(杉田玄白の曽孫、蘭学者)の長女縫と結婚。 このとき二人の取り交わした結婚契約書には行札人(立会人)として福沢諭吉、 証人として初代駐米公使森有礼が署名している。 在米中福沢の求めにこたえ て三田演説館の建設のための参考資料として「建物の絵図入書籍」一冊を送っ ている(8年4月29日付富田宛書簡)。 9年10月ニューヨークより帰国、外 務省少書記官に任じた。 11年12月イギリス公使館在勤を命ぜられる。 14 年5月に帰国し、同年10月大蔵省に移った。 その後日本銀行創設に関与し、 副総裁を経て21年には総裁に就任。 東京府知事、貴族院議員、富士紡績社 長、横浜火災海上社長などを歴任。 廉潔の士として知られた。 大正5(1916) 年2月27日没。