吉野俊彦さんの「富田鐵之助論」2018/08/18 07:15

 吉野俊彦さんの『歴代日本銀行総裁論―日本金融政策史の研究』(毎日新聞 社・1976/講談社学術文庫・2014)を、鈴木淑夫さんの補論「佐々木直から黒 田東彦まで」の付いた講談社学術文庫で読む。 裏表紙のまとめは、「明治15 (1882)年。近代的幣制を確立すべく創設された日本銀行。その歴史は波瀾に 満ちている。昭和の恐慌と戦争、復興から高度成長、ニクソン・ショックと石 油危機、バブル、平成のデフレ……。「通貨価値の安定」のため、歴代総裁はい かに困難に立ち向かったのか。31代29人の栄光と挫折を通して描く日本経済 の鏡像。」

 第二章が「富田鐵之助論」である。 富田鉄之助は二代目の日銀総裁、在職 期間は明治21(1888)年2月21日から翌22年9月3日まで1年半と短かっ たが、初代総裁の吉原重俊と並んで創立事務にあたり、明治15(1882)年10 月には副総裁に任じられていたから、日銀の在職期間は相当の長期間にわたっ た。 吉野俊彦さんは富田鉄之助を、歴代の日銀総裁の中では、もっとも出色 の人物であった、として三つを挙げる。

 第一は、薩長出身でなければ政府と 関係機関の要職につけなかった当時、仙台藩出身で勝海舟の高弟だった富田は、 孤軍奮闘せざるを得ない立場にあった。 初代吉原重俊は薩摩出身で、当時飛 ぶ鳥を落とす勢いだった松方正義の直系だった。 富田が日銀の要職についた のは、長年英米に留学して、内外にわたる最新の経済知識を身につけていたか らであろう。

 第二に、富田総裁がきわめて清廉潔白、自己の所信に忠実なこ と、驚くべきものがあった。 横浜正金銀行の問題について、松方大蔵大臣と 意見が合わなかったため、在職一年半で辞職したのが、それを如実に物語って いる。 富田は、自分の正しいと信じたことは、どんな上の地位の人にでも、 堂々と所信を述べるだけの意気を持っていた。 総裁を辞めてからも、自己の 所信を貫き、いろいろと摩擦を起こしているが、富田の出処進退が稀にみる清 廉潔白なものであったことは、特筆大書されてよかろう。

 第三に、富田総裁 の時代になって、日銀は政府がつくったものではあるが、政府とは別個の機関 である、政府の正しい意見に協力することは当然であるが不当な意見には必ず しも同調しないという日本銀行意識が、はじめて確立されていったのではなか ろうか。

 富田が日銀総裁になってからの、大問題三つは、また明日。