発券制度・金利政策の確立と、横浜正金銀行問題2018/08/19 08:05

 富田が日銀総裁になってから、大きな問題は三つあった。

 (1)明治21(1888)年8月1日、兌換銀行券条例が改正され発券制度とし て保証発行屈伸制限法がはじめて確立されている。 富田は、海外で得た知識 を活用し、英独の制度を参考に、このわが国独特の制度をつくった。 七千万 円という保証発行限度が確定され、場合によっては限度を越えられるという制 度で、ようやく金融政策運営の余地が出てきた。 その後、長期にわたってわ が国の発券制度の基本として存続した。

 (2)総裁就任後しばしば公定歩合を上下させて、弾力的な金利政策を運営 していること。 富田の総裁就任直前頃から、不換紙幣の整理と兌換制度の確 立という背景のもとに、産業革命の序曲が奏でられつつあった。 産業革命の進 展は、インフレとデフレ、あるいは幅の大きな景気変動をともなった。 企業 熱が余りに盛んになると、投機的な行き過ぎを心配して、富田総裁は再三公定 歩合を引き上げた。 初めて金融政策の古典的な範疇である金利政策、貸出政 策が弾力的に行われるようになったのである。

 (3)横浜正金銀行の問題。 横浜正金銀行は、日本銀行より1年半ほど早 く、明治13(1880)年に開業した外国為替の専門銀行である。 横浜正金銀 行の外国為替買取資金は最初政府が直接円資金を預託するという形で調達され ていたが、日本銀行ができてからは、政府の円資金預託と並んで、日本銀行か らも低利の資金を借り入れるという形で調達されていた。 富田が総裁になっ て約1年たった明治22年、政府は従来横浜正金銀行に預託していた円資金を 財政の金繰りの関係で引き揚げざるを得なくなった。 そこで横浜正金銀行は、 外国為替を買い取るための低利資金に事欠くこととなり、単なる国内の商業銀 行になってしまうか、それとも日本銀行からの低利の借り入れ枠を拡大しても らって、従来通り外国為替の専門銀行としてやってゆくか、選択を迫られるこ ととなった。 横浜正金銀行は、後者を選択するため松方正義大蔵大臣に陳情 し、松方蔵相は要請を容れて、日本銀行の富田総裁に伝えるが、富田は同意し ない。 松方はわざわざ日本銀行の重役会に出席して、「告諭」を行った。 富 田は「奉答卑見」と題する意見書で反対する。 中央銀行が、ある特定の銀行 に対して巨額の融資の枠を設定し、いわれるままに資金を供給することになっ てしまっては、金融の一元的調整ができない。 その融資枠が、本当に外国為 替の買取りに充てられるのか、外地での貸出しに利用されるのかわからなくな る。 つまり、外国為替の売買操作は日本銀行が行うべきだということを強調 した。 中央銀行の総裁がその正しいと信ずるところを、大蔵大臣に対してお そるるところなく述べている、堂々とした気魄の窺われる文章だった。 結局、 富田総裁は辞任に追い込まれる。 表面上は依願辞職だけれど、実際は「職権 ニヨル罷免」だった。 直後、川田小一郎が三代目の日銀総裁となり、明治22 年10月、横浜正金銀行との間に外国為替手形再割引契約を締結し、日本銀行 は横浜正金銀行に低利の円資金貸出しの枠を拡大することを承認し、ここに爾 後数十年にわたる横浜正金銀行の為替専門銀行としての地位は確立した。

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