薩摩兵に英国式兵学を伝授2018/09/13 07:16

 赤松小三郎は、慶應2(1866)年11月に幕府の開成所(旧蕃書調所、のち の東京大学)から教官就任の打診を受けるが、12月上田松平家は「兵制改革の ため必要な人材である」と謝絶する。 つぎに小三郎に教官就任の要請をした のは、薩摩だった。 『英国歩兵練法』の翻訳中、小三郎は薩摩藩士・野津七 次に英国兵学を教えていた。 後年、日本陸軍随一の戦術家として知られ、日 露戦争で第四軍を指揮し、陸軍元帥になる野津道貫である。 野津七次は、英 国式兵学を修行せよという藩命を受けて江戸に出、下曾根塾に入門していた。

 慶應2(1866)年5月、薩摩は兵制をオランダ式からイギリス式に改めてい る。 薩摩は江戸で英国兵学者をスカウトしようとして、野津が動き、小三郎 がスカウトされたようである。 野津は、赤松小三郎を京都今出川の薩摩藩邸 内の一角に開設した塾の教官として招き、薩摩兵に英国式兵学を伝授し、訓練 することも依頼したようだ。 野津七次がしばらく塾頭を務め、慶應3年4月 藩命で鹿児島に帰ってからは、兄の野津鎮雄(のちの陸軍中将)が塾頭となっ た。 慶應3(1867)年4月12日、島津久光に従って、薩摩兵総勢700名が 入京、在京の者も加え800名に、赤松小三郎は薩摩藩邸で英国兵学を教え、隣 接する相国寺境内では英国式で調練する役割を担う。 その中には、篠原国幹、 樺山資紀、東郷平八郎、上村彦之丞などなど、後の日本の陸海軍を担う主要な 人材が揃っていたのだ。

 先に出版された『英国歩兵練法』だが、刊行後誤訳も見つかり、薩摩は1864 年にイギリスで出版された改訂版原本により、今度は小三郎単独での翻訳を依 頼した。 その翻訳は慶應3年5月に完成し『重訂英国歩兵練法』(全7編9 冊)として刊行された。 島津久光は完成を喜んで、小三郎に世界最新式の騎 兵銃を与えた。 関良基さんが発見した書簡によれば、大久保一蔵(利通)と 吉井幸輔(友実)は、赤松小三郎に対する猜疑心を抱いていて、身辺を探索さ せており、この本を軍事機密として厳重に管理し、邸外に流失しないように指 令している。

 小三郎は、二条城からほど近い衣棚に私塾を開いてもいたようで、薩摩のほ か、肥後、大垣などの門人がいると、兄への手紙に見える。 会津が京都で開 設した洋学校の顧問も務めているが、小三郎を招いたのは砲術指南の山本覚馬 (勝海舟らと共に佐久間象山の弟子)だった。 この会津の洋学校では、幕府 の洋学侍講・西周助(西周(あまね))も顧問を務めていた。 西周は、津田真 道と共にオランダに留学し、帰国後、徳川慶喜の側近に取り立てられ、当時は 京都で塾を開いていた。 ここで注目すべきことは、赤松小三郎、山本覚馬、 西周の三名は、それぞれ初期の憲法構想というべき建白書を出していることで ある。 赤松小三郎「口上書」、山本覚馬「覚書」、西周の「議題草案」である。  西周のそれは「大君専制」とでも言うべき徳川家中心の政体構想だったという が…。

 上田藩士の赤松小三郎が、なぜ京都にいられたのか。 鳥取池田家の京都留 守居役の記録「慶應丁卯筆記」には、赤松小三郎は「病気療養」を理由に藩命 を無視して単身京都に出て、薩摩邸に出入りするようになった、とあるそうだ。  会津洋学校で学んでいた広沢安宅(会津公用人広沢安任の甥)の『幕末會津志 士傳』に、「小三郎は時勢に先ち洋書を繙き己れの志を行はんとするも、藩地に 於て容れられざるを以て意を決して藩地を去り、京都に出てゝ私塾を開き、来 り学ぶものには何藩人を問はず教授したり」とあるそうだ。

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