赤松小三郎「御改正口上書」2018/09/14 07:10

 赤松小三郎は、慶應3(1867)年5月17日に前の越前侯で幕府の政治総裁 職も務めた松平春嶽に「御改正之一二端申上候口上書」、同じく5月(日付不 明)に薩摩の国父・島津久光に「数件御改正之儀奉申上候口上書」を提出して いる。 内容は、ほぼ同じだそうだ。 2016年になって、幕府にも同様の建白 書が提出されていたことが、作家の桐野作人氏によって発見された。 盛岡藩 の記録「慶應丁卯雑記」に、その全文が転写されていたという。

 小三郎の「御改正口上書」は、普通選挙で選出された議会が国事をすべて決 定するという統治機構論、さらに法の下の平等・個性の尊重など人権条項をも 含む内容であり、日本最初の民主的な憲法構想といってよい内容だった。 天 皇家と幕府とを合体した上で統一された政権を新たな「朝廷」すなわち行政府 とし、それとは別に新たに立法府としての「議政局」を設置する。 議政局は、 全国民の中から普通選挙によって議員を選出する「下局」と、諸侯・公卿・旗 本の中からやはり選挙によって選出する「上局」からなる。 議政局は国権の 最高機関であり、行政府はその決議に従わなければならならず、天皇といえど もその決議に拒否権を行使できない。 また議政局が、首相以下6人の閣僚と 各省高官の人選も行なうという議院内閣制も提起している。

 ここで平山洋さんの『「福沢諭吉」とは誰か』を参照すると、「口上書」が提 出された慶應3(1867)年5月は、おりしも京都で、9日の『西郷どん』第34 回「将軍慶喜」に出て来た、いわゆる四侯会議が開催中だった。 薩摩藩の小 松帯刀・西郷隆盛・大久保一蔵(利通)らが、有力諸侯として知られた松平春 嶽・伊達宗城(前宇和島藩主)・山内容堂(前土佐藩主)に働きかけ、彼らを朝 廷の名の下に京都に呼び寄せ、国父・島津久光とともに開港問題や長州赦免問 題を話し合うためのものだった。 しかし四侯会議は、慶喜の巧みな政局操作 と両問題の討議順にこだわる些末な議論に終始したため、無力化してしまった のである。 薩摩、島津久光の意図とは裏腹に、かえって慶喜の主導により、 5月23日の徹夜の朝議で両問題に勅許が下されることになった。 慶喜の政治 的手腕は尋常ではない、という一種の恐れが有力諸藩の人々の間に広がった。

 赤松小三郎の「口上書」の日付5月17日が、四侯会議が開催中だったこと を考えると、『西郷どん』にはほとんど言及されない「新しい国のかたち」が、 「口上書」を読んだ関係者の頭の中では、具体的に描けていたことになる。