「「明治十四年の政変」と井上毅」その発端2018/09/29 07:08

 『福沢手帖』第178号で、もう一つ注目したのは、大久保啓次郎さん(鴨川 義塾理事)の「「明治十四年の政変」と井上毅―福沢諭吉の文明開化思想から井 上毅の儒教思想へ―」である。 「明治14年の政変」については、私も日本 にとって重要な歴史の転換点であったと考えていて、福沢の慶應義塾と大隈重 信の早稲田で共同研究をしたらどうかと書いたことがあった。

「明治14年の政変」の共同研究を<等々力短信 第1064号 2014.10.25>

http://kbaba.asablo.jp/blog/2014/10/25/7473082

 大久保啓次郎さんは、この事件の勝敗を陰で操ったのが井上毅(こわし)で あって、これを契機に井上は明治国家形成に深く関わることになったとし、一 方、福沢諭吉の文明開化思想は、政府や教育への影響力を狭められていった、 とする。 そして、井上毅が「明治14年の政変」の黒子であったことを最初 に明らかにした昭和27年の大久保利謙著『明治十四年の政変と井上毅』を始 め、井上毅伝記編纂委員会編『井上毅伝・史料編 第一』などから、政変におけ る井上の動きや、その「人心教導意見書」を紹介して、彼を動かした思想の一 端に光を当てている。

 井上毅(1844~1895(満51歳))は、肥後国(熊本県)出身、藩校「時習館」 で朱子学を学び、儒教思想を習得し、その後の人生で儒教思想への親近感は強 い。 慶應3年、藩命でフランス語習得のため江戸へ出る。 明治4年、司法 省に入り、翌5年司法省の仲間7人とパリやベルリンに行き、そこで岩倉使節 団と合流する。 6年に帰国するが、その間の2年間は主としてボアソナード らのフランス法学者の講義を受けた。

 「明治14年の政変」の経緯と井上毅。 明治天皇は各参議に立憲政体につ いての意見書提出を命じ、明治12年末の山縣有朋案、13年の伊藤博文案が提 出されたが、筆頭参議の大隈重信はなかなか出さず、14年3月、密書として有 栖川宮に提出した。 盟約関係の伊藤、井上馨に見せず、国会開設時期が明治 16年と早く、英国型議院内閣制立憲政体の憲法というものだった。 これを見 て驚いた岩倉右大臣は、6月初旬、太政官大書記官井上毅に見せ、反駁書を書 かせ、調査を命じた。 6月14日、井上毅は岩倉に「大隈の意見書は、福沢諭 吉著『民情一新』に見られる、福沢の政体構想と共通であり、それは天皇の権 限を無視した英国型立憲政体である」との報告書を出した。 6月21日、岩倉 はプロイセン型を念頭に大臣主導により進むべく、井上毅に憲法作成の案を用 意するよう命じて、伊藤に憲法問題を任せた。 井上毅は「憲法制定意見書」 を伊藤に送付、主導権を取るよう強く要請した。 伊藤は井上毅意見書が自分 の考えとほぼ同じと知り、7月2日大隈意見書を「急進的」と激しく非難、岩 倉も同様に不同意を表明した。 同5日、岩倉は、伊藤に書簡を送り、プロイ センをモデルとした憲法制定を示唆した。 同12日、井上毅は伊藤への書簡 で、福沢を中傷しプロイセン型憲法制定を急ぐよう強調、政党内閣制阻止との 自説を再説した。 同22日、井上毅は、京都に岩倉を、宮島に井上馨を訪ね、 大隈孤立化への多数派工作を開始した。 同27日、井上馨は伊藤への書簡で、 井上毅の訪問を踏まえ、プロイセン型憲法制定、早期国会開設に賛成する事を 表明。 また井上毅は、松方正義、黒田清隆、西郷従道などにも大隈孤立化工 作を懇願。 既にこの時点で、大隈意見書の採用は、宮中、政府内ともに多数 派となり得ないことが、明らかになっていた。(つづく)

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