柳沢吉保と五代将軍綱吉2018/10/12 07:10

 川口祥子さんのお話は、柳沢吉保と五代将軍綱吉のことになる。  柳沢吉保の出世ぶりが半端でない。 柳沢吉保は、万治元(1658)年に生れ たが、甲斐源氏武田氏一門一条氏の末裔と称していて、武田滅亡後祖父信俊が 家康に仕えたとする。 父安忠は館林藩士で、吉保は7歳で藩主綱吉に初お目 見えした。 18歳で家督相続、保明となる、小姓組(530石)。 延宝8(1680) 年・23歳、綱吉が五代将軍就任に従い、幕臣となり御小納戸役。 25歳、従 六位下(830石に加増)。綱吉の「学問(儒学)の直弟子」となる。 26歳、 1030石に加増。 28歳、従五位下、出羽守に。小納戸上席。 元禄元(1688) 年・31歳、加増、12030石(大名になる)、側用人となる(若年寄上座の席)。  33歳、従四位下、32030石に加増。 34歳、常盤橋内に上屋敷拝領。 35歳、 62030石に加増。 37歳、72030石に加増、川越城主、侍従、老中格に。 40 歳、92030石に加増。 41歳、左近衛権少将、老中首席、大老格。 元禄14 (1701)年・44歳、柳沢父子に松平姓と「吉」字を許可、吉保・吉里となる。  45歳、112030石に加増。 47歳、151200石に加増、甲斐甲府城主に。 48 歳、甲斐一国の国主に(実質22万石)。 宝永6(1709)年・52歳、1月綱吉 死去、5月家宣将軍に、6月吉保隠退し吉里家督相続、吉保六義園に隠棲。 正 徳4(1714)年・57歳、死去。 ところで、30石という半端がついているの は、なぜなのか、チコちゃんならぬ、祥子さんに訊き洩らした。

 柳沢吉保の人物像。 (1)霊元上皇に和歌の指導を受ける→皇室とのパイ プ、側室正親町町子の存在も大。 (2)かなり有能な人物。 川越城主時代 に三富開発(埼玉が誇る農地)。 甲府城主(父子2代)城下整備・物流活性 化による繁栄。

 綱吉について。 (1)学問大好き。 武断政治から文治政治へ。 その理念 は儒学で、忠孝を重視した。 自ら講義し、死・血の穢れ・不浄に対して極度 に潔癖→服忌令(ぶっきれい。子供の喪にも服す)・生類憐令・浅野内匠頭即日 切腹。 皇室への敬意→大嘗会(天皇即位の日に行われる節会)・葵祭の復活。  古墳、古陵墓の保存。 寺社造営・改修、106件700万両(推定)(現在の7千 億円、人件費を入れると2兆円)。

 (2)独裁政治。 老中(家柄)の合議制から側用人(能力・信頼)を通して の親政。 大名の改易・減封処分46家(全体の2割程度・吉宗でも12家)、代 官は51/60罷免、旗本100/5000。

 (3)財政改革。 大名領地の検地→幕府直轄領。 旗本の人件費削減。 勘 定奉行荻原重秀の貨幣改鋳。 各種課税(酒税を始めた)。

 (4)悪政。 生類憐令(犬の他に、捨子・捨牛馬・鳥・鷹・鉄砲も)…犬屋 敷などの費用は町内負担なので評判悪かった。鷹狩の鷹も、鷹の餌の犬も、猟 犬も放した→町内犬だらけ。 莫大な財政支出(行事や建築工事)。

 現代への「遺産」。 (1)犬を食べなくなったこと。 日本も犬食文化で、 犬鍋などは当り前だったのが、「生類憐令」の徹底で、表面的には嫌悪感。  (2)各地の社寺等文化遺産の改修→観光資源。(淀・秀頼母子も同様)

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック