武蔵国国分寺跡と湧水「お鷹の道」2018/10/16 07:23

 東山道武蔵路跡から、さらに、どんぐりが落ちてコロコロ転がる坂道を下る と、崖線(ハケ)を越えて、開発整備中の国指定史跡、武蔵国分寺跡に出る。  中門、講堂、金堂、鐘楼などの礎石や区画が整備され、その規模の大きさがわ かる。 プラタナスの実や、花梨の実が落ちている。 プラタナスの実を拾っ て、掌の運動よろしく、こねくり回している人がいた。

 奈良時代の8世紀中頃、あいついで飢饉や干害、大地震による災害、疫病が 流行して、人々は苦しんでいた。 朝廷でも、中心的役割を果たしていた藤原 四兄弟が疫病で亡くなり、大宰府では反乱が起こるなど、混乱が続いていた。  天平13(741)年、聖武天皇は、仏教の力で国を安定させ、人々を苦しみから 解放するため、諸国に国分寺(僧寺…金光明四天王護国之寺、尼寺…法華滅罪 之寺)を建立するように命じた。 武蔵国では、国府に近く、都へ通じる東山 道武蔵路沿いの、湧水の豊富な国分寺崖線の麓一帯のこの地に、国分寺が置か れた。 全国に建てられた国分寺の中でも、規模が大きく、歴史的にも重要な のだそうだ。 われわれの行ったのが僧寺跡で、東山道武蔵路を越えた西側に 尼寺跡があり、私は以前、枇杷の会の吟行でそこへ行ったことがあった。

 一帯は、以前行った時と様変わりしており、国分寺市によって「おたかの道 湧水園」として整備され、史跡の駅「おたカフェ」の横を通って、代々国分寺 村の名主だったという旧本多家(周辺には軒並み本多姓の家がある)の長屋門 をくぐると、右に七重塔の10分の1の模型、正面に武蔵国国分寺資料館があ り、主に史跡武蔵国分寺跡の出土品を展示している。 「寺」と朱墨で書かれ た男瓦(おがわら・円筒を半切にした形の長瓦。うつむけて牝瓦(めがわら) と食い違わせて葺(ふ)く。)、「国寺」と墨書された土器、幡(ばん・仏や菩薩 の威徳を示すために立てる飾り布)の金銅製飾金具、鉄製農耕具などがある。 

 つづいて名高い、「お鷹の道」と「真姿の池湧水群」へ行く。 ここも、枇杷 の会の吟行で来たことがあった。 柿がたわわに実り、ホトトギスや酔芙蓉の 咲く流れに沿った小径を歩きながら、何で「お鷹の道」というかが話題になっ たが、鷹狩の関係だろうぐらいで、確かな答はなかった。 帰ってから調べる と、江戸時代に現在の国分寺市の村々は尾張徳川家の御鷹場に指定されていた のだそうで、それにちなんで、崖線下の湧水があつまり野川にそそぐ清流沿い の小径を「お鷹の道」と名づけ、約350メートルを遊歩道として整備したのだ そうだ。 前に来た時は、本多園という農家の直売所で、蕪と小松菜をそれぞ れ百円で買い、<湧水で洗ひ上げたる蕪を買ふ>という句をつくっていた。