「薩摩藩黒幕説」には無理がある2018/10/28 08:01

 (4)「薩摩藩黒幕説」。 磯田道史さんは、この説が唱えられる理由の一つ に、薩摩は「常に疑いの目でみられた集団」であり、「陰謀を企てそうだ」とい うイメージがあるという。 人は、自分たちのグループでない=「他者」観を 持つと、「この人たちは何か変なことをするのではないか」と考えてしまいがち だが、幕末に薩摩藩はこういう「他者」観を、多くの日本人から持たれていた ような気がする、と磯田さんは言う。 逆に「他者」観を持たれなかったのが 長州藩で、京都も大坂の町人たちも、一貫して長州藩には驚くべき同情を見せ、 元治元(1864)年7月の蛤御門の変(禁門の変)で京都が丸焼け(「鉄砲焼け」 と呼ぶ)になったにもかかわらず、直後からの噂は会津藩や薩摩藩の連中が火 を点けて回ったというものだった。 これは地域的な問題があって、同じく瀬 戸内の長州藩には親近感があるが、東北の会津弁や、髪の結い方や服の着方が 違う兵児帯の、ぱっと見て異文化の人達とわかる薩摩藩士たちも、まったく共 感の持てない連中と思われていた、という。

 薩摩藩が陰謀家として疑われるもう一つの理由は、傑出した情報力、そして 政局を作っていく力があげられる。 まず実行力があるかどうかが非常に大切 な点で、慶應期の京都で、いかなる陰謀をも遂行できる強大な実行力を持って いたのは、薩摩藩と会津藩の二藩しかない、と磯田さんは指摘する。 両藩は、 様々な人物に高い頻度でアクセスし、政局の細かい密議をしている。 薩摩藩 は西郷吉之助(隆盛)や大久保一蔵(利通)、高崎正風(しょうふう)など在京 の首脳陣が非常に優秀だったし、会津藩も手代木直右衛門勝任(すぐえもんか つとう)や秋月悌次郎など有能な人材を京都で活動させていた。 この両藩は、 人材登用をとことん追求して他藩以上に有能な人材を見つけることに成功し、 現場に立たせていた。 会津藩は近代型エリート教育をし、薩摩藩は戦国時代 がフリーズドライされて残っていた「郷中教育」で、示現流の剣術の稽古と「詮 議」という一種のケーススタディで判断力を養っていた。

 龍馬暗殺について薩摩藩犯行説があるが、薩摩は龍馬と親しく、当然龍馬の 居所を知っていた。 土佐藩邸の目の前の近江屋に滞在中の龍馬を狙うという ことは、救援が駆けつけるリスクが大きい。 呼べば龍馬は薩摩藩邸に来るか ら、帰りに闇討ちにすれば、証拠も残さず簡単に殺すことができる。 薩摩藩 黒幕説には、どうみても無理があるのだ。

 そもそも薩摩藩の龍馬暗殺の動機といわれるものが実に曖昧だ。 龍馬は「大 政奉還をやって、武力倒幕の出先をくじいたから、西郷や大久保に邪魔だと思 われた」という理由を挙げるが、大政奉還は、薩摩藩も一緒になって幕府にす すめている。 天皇中心の政権を作ることでは、龍馬も薩摩藩も同じ考えだっ た。 その政権を作る過程で、幕府を武力で倒したいのが薩摩藩で、できるこ とならそれを避けたいというのが龍馬だった。 しかし、慶應3(1867)年夏 頃までに書いた龍馬の手紙には、大小はわからないが必ず戦争になる、戦争と なれば武力倒幕も辞さないというリアリストの顏も見えるのだそうだ。