天皇の食材、どこからどんなものが貢進されたか2018/11/24 07:16

 1963(昭和38)年8月、平城宮東半の北端近く、現在は「内裏北外郭官衙 (かんが)」と呼ばれる地区で、奇妙な土坑が見つかる。 平面は一辺が約4 mの井戸と見まがう方形で、掘り下げると、深さ1・5mを超えたあたりから、 土器や瓦、曲物(まげもの)や檜扇などの木製品、植物の種まで、多種多様な 遺物が出て来た。 SK820と名付けられるこの土坑からは、約1800点の「木 簡」も見つかった。 様々な種類の「木簡」がバランスよく含まれていて、他 者との通信や記録に使われる「文書(もんじょ)」、物品の管理や送付に欠かせ ない「付札(つけふだ)」、文字の練習などを行った「習書(しゅうしょ)」とい う古代木簡の三本柱、それぞれのバリエーションも多彩だった。 「木簡」は、 その形状などに基づき、18種類ある形式番号のいずれかが与えられるが、その 基礎はSK820出土木簡の分析から案出されたものだ。 現在に通じる日本古代 木簡学の礎(いしずえ)を築いたSK820出土木簡は、時に「荷札のデパート」 や「木簡の標本棚」と呼ばれるそうだ。

 発掘で見つかった租税の荷札木簡を調べると、贄(にえ・天皇の食材)の貢 進の実態、当時の日本のどの地域から、どんなものが納められたか、言い換え れば、各地の特産物の一端が明らかになる。 例えば、地域の偏りが顕著なも のとしては、志摩国(今の三重県の志摩半島)と安房国(千葉県南部)のアワ ビ、駿河国(静岡県中部)や伊豆国(静岡県東部の伊豆半島と、東京都の伊豆 諸島)のカツオ、能登国(石川県の能登半島)のイリコなどがある。 「木簡」 に「海藻」古くは「軍布」として出てきて、当時は「メ」と読んだようなのは 今の「ワカメ」、山陰地方や志摩半島のほか、関東や北陸、瀬戸内からも届けら れていた。 「若海藻」(走りのワカメの新芽の柔らかい部分なのか)と書いた ものには、阿波国板野郡牟屋海(今の鳴門地域)、因幡国気多郡水前(みさき、 今の鳥取県中部)など固有の地名が記されていて、興味深いのは、8世紀のブ ランド物ワカメの産地の多くが、今でもワカメの産地として名高いことだとい う。