福沢諭吉と西郷隆盛<等々力短信 第1113号 2018.11.25.>2018/11/25 07:46

 福沢諭吉は、西郷隆盛とついに会うことはなかった。 しかし、お互いにそ の人物を認めて、互いに敬慕の情を懐いていたことは、いろいろの事実で立証 できる、と富田正文先生の『考証 福澤諭吉』(岩波書店)にある。 明治4(1871) 年にヨーロッパ視察から帰った実弟西郷従道や山県有朋らの熱心な勧めもあっ て西郷隆盛が上京し、御親兵とポリス制度を創設した時、先に東京府の依頼で 市中治安警備の報告書を提出していた福沢のところへ配下の市来四郎を派遣し て、ポリス制度について教えを受けている。 慶應義塾開塾以来明治10年ま での薩摩出身の入門者は130名で、その内明治4年から8年までの者は90名 を数え、とくに明治6年が最も多く、35名もいて、その内2名は西郷自身が保 証人になっている。 西郷は薩摩の子弟に慶應義塾入学を勧めた。

 福沢は西郷隆盛の、平素の生活態度が質素率直で人情味にあふれ、しかも一 旦承知して引き受けると国家の大事に当たって邁進する姿に、限りない尊敬の 念をいだいていたようである。 明治10(1877)年、西郷暴発の報に接した 福沢は、討伐令を出さないよう建白書を書いて運動したが、ついに西南戦争と なり、9月西郷は戦死した。 福沢は痛憤の涙を払いながら、『明治十年 丁丑 公論(ていちゅうこうろん)』を書き上げたが、当時の出版条例の下では発表で きず、筐底深く秘蔵した(明治34年出版)。

福沢は言う――、政府の専制は放っておくと際限のないものであるから、人 民としてはこれに抵抗しなければならぬ。 抵抗するには、文や武、あるいは 金をもってするなど、いろいろの方法があるが、いま西郷隆盛は武をもってし たもので、自分の考えとは少し違うが、その抵抗の精神に至っては全く文句を 言う筋合はない。

小川原正道さんは『福澤諭吉事典』で『丁丑公論』を、以下のように解説す る。 かつて維新の元勲として賞賛していた西郷を賊として扱う新聞雑誌を不 満とし、西郷が示した「抵抗の精神」を専制政治に抵抗する精神として、また 西郷の人格を士族の気風や「文明の精神」を宿したものとして、高く評価した。  福沢は、鹿児島士族の割拠を許して貧窮に追い込み、みずからは奢侈を極めて きた明治政府にこそ反乱勃発の責任があると指弾する。 一方、西郷も地方自 治に力を入れて言論や学問、産業によって抵抗すべきであったと指摘した。 こ こでいう抵抗とは権力の偏重に修正をうながすものであり、福沢が好んで使っ た「独立」「私立」と同義であったといえる、と。

福沢は、当時の実情を百世の後の子孫に知らせ、日本国民の抵抗の精神を保 存して、その気脈を絶つことのないようにすることを意図した。 141年後の 今日、政府の専制に対する日本国民の抵抗の精神は、福沢の意に適うだろうか。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック