福沢諭吉と大久保利通2018/11/27 07:07

「等々力短信」第1113号に「福沢諭吉と西郷隆盛」を書いたら、福沢と大 久保利通との接点はあったのか、というお尋ねがあった。 早速『福澤諭吉事 典』で、これも小川原正道さんがお書きになった「大久保利通」を見た。

福沢と大久保利通は数度面会しているそうだ。 『福沢全集緒言』によると、 明治7、8(1874、75)年頃、大久保、伊藤博文と面会した際、福沢は民間の 議論も侮ってはならないと語ったという。 明治9(1876)年に鮫島尚信邸で 内務卿の大久保と面会した際には、民権論者の首魁と目されて、人民が政府に 権利を訴える以上に義務を伴うなどと言われたため、福沢は自分が民権云々を 論ずるのは政府の政権を批判するのではなく、国民の権利の一つである人権を 守るのみだと強調したと、述べている。 この日の日記に、大久保は、福沢と の談話は面白く、さすが有名なだけのことはあると記した。 すでに明治6 (1873)年には、政府内で立憲政体について調査するに当たり、担当となった 伊藤博文が木戸孝允に宛てた手紙において、大久保からこの調査に福沢も参加 させてはどうかと問われ自分もこれに同意したと述べている。

 明治11(1878)年5月14日、大久保は不平士族に襲われて東京紀尾井坂で 暗殺された。 永井好信(明治7(1874)年11月慶應義塾入学)によると、塾 生はこれを聞いて非常に喜んだが、福沢は臨時に三田演説会を開き、大久保は 進歩的人物であり、明治新政府に貢献するところ少なくなかったのに、暗殺さ れたのは実に惜しむべきことだと語り、暗殺者に同情を寄せることを戒めたと いう。 福沢は翌日付の『民間雑誌』に「内務卿の凶聞」と題する文章を発表 し、権力者を襲う災いの原因は過重の権威と独裁政治にあり、国民の風俗習慣 の変化に合わせつつ、独裁を「公共の政治」に転向していくことを求めた。 そ れは大久保没後の体制に対する福沢なりの期待であった。

 以上が、小川原正道さんの『福澤諭吉事典』「大久保利通」だが、富田正文先 生の『考証 福沢諭吉』(下)の「維新政治家との交遊」の「大久保利通」も読 む。 「維新の三傑のうち、木戸孝允との交情は、前記の通り濃やかなもので あったが、大久保利通とは、両三回会談したけれども、いずれも左様しからば の一通りの談話に終始したようで、木戸との交情のように、膝を抱いて共に歎 き、共に慰め合うというような情愛の籠ったものではなかったようである。」と 始まる。 その後、小川原正道さんの解説の元になったかと思われる詳しい三 回の会談の事情が書かれている。 初対面は、大久保の日記を調べると、明治 8(1875)年6月13日の条に、「六字ヨリ森氏エ訪。寺島子、福澤子、箕作子、 其余会食。」とあり、森有礼が主人役で、そのころの洋学者仲間(多分明六社の 中心学者)を大久保に引き合わせたのであろう、とある。 さらに親切に() 内に、日記に六字とあるのは、西洋時計による時刻を示し、日本流の六ッ時と 混同しないために、字といったのである、と説明している。

 明治6(1873)年の大政変の直後、大久保が新人登用の一布石として、立憲 政体取調掛のスタッフの中に福沢を加えてはどうかと伊藤に話したという件に ついて、富田正文先生はいささか唐突の感がなくもなく、思い付きだが、福沢 の親友寺島宗則がこの政変で新たに外務卿に任命され、さらに政体取調掛に命 ぜられたから、薩派の頭領大久保に福沢の名が吹き込まれたのではないか、と 典拠はないがと、推測している。 伊藤は大久保の示唆に対し、直接に反対の 説を述べるのもどうかと思い、同じ長州閥の頭領木戸に書簡を送って、やんわ りとネガティヴの意見を述べたので、木戸もこれに同意したと、次のような木 戸書簡を引いている。 洋学者は欧米の政体には通暁しているだろうが、それ が日本の現在の人民に適するか否かは、よく考えてみなければならない、それ に一旦その人に相談する以上は、多少なりともその説を採らないと失望させる ことになるだろう。 そうなると私事のために公の事が左右されるという弊害 もあり得るから、洋学者の説は広く求めて取捨するのがよいと思う、と。 結 局、この話は福沢のところまで達せずに立ち消えになった。

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