福沢諭吉と木戸孝允2018/11/29 07:14

「大久保利通」のところで、富田正文先生の『考証 福沢諭吉』の「維新の三 傑のうち、木戸孝允との交情は、前記の通り濃やかなものであった」というの を引いたので、木戸孝允についてもみておきたい。

明治6(1873)年、岩倉使節団の欧米巡遊から木戸が帰国したのが7月23 日、直後の9月4日に福沢は初めて木戸に会った。 木戸の日記に「共に時勢 を慨嘆」したとあり、同行したのは長与専斎と児玉淳一郎。 長与は、福沢の 緒方洪庵塾以来の親友、岩倉使節団に随行して欧米の医事衛生制度を視察して きた。 児玉淳一郎は、長州出身の法律家で、アメリカに留学して法律学の学 位を取得、当時は慶應義塾出版局の二階に寄寓して、塾生に法律の講義などを していた(後に、貴族院議員)。 その頃、福沢は児玉に三谷三九郎という豪商 の破産事件の代言人になることを勧めた。 そこで児玉は裁判所の公認する第 一号代言人となって出廷した。 アドヴォケーターを代言人と訳したのも福沢 だと伝えられている。 今日の弁護士の濫觴である。

木戸はよほど気に入ったのか、9月16日に福沢を訪ねて来た。 木戸日記に、 午前7時過ぎより午後2時に及び、昼飯を饗応せられた、とある。 当時、福 沢邸にいた草郷清四郎の懐旧談によれば、雨風の劇しい中、突然訪ねて来て、 昼時に近所の料理屋に仕出しを頼んだが暴風雨で休み、芋を煮たお菜に香の物 の昼飯を出し、時の大官である参議に随分粗末なご馳走をしたものだ、と。

この他にも、福沢は長与、児玉と同道で木戸を訪問したり、文部大輔田中不 二麿が招待した洋学者の集会で木戸と一座したり、田中の周旋で木戸と会談し たり、また時局について意見を具申したこともある。 また一度だけ九鬼隆一 の宅で偶然二人が顔を合わせたこともあった。

木戸は神経の細かい性格だったから、政治上の難局に立たされた時などには、 福沢に面談して苦衷を訴えるようなこともあり、福沢の方からもこれを慰めた こともあり、その交情は極めて篤かったと伝えられている。

木戸は岩倉使節団からの帰国後、明治6(1873)年政変では、いわゆる内治 派として征韓論を退けたが、翌年に台湾出兵が強行されると、これに反対して 参議を辞任した。 明治8(1875)年の大阪会議の結果、政府に復帰したが、 一緒に事に当たっていた板垣退助が同年秋、司法行政分離の主張が容れられず 退官し、左大臣島津久光も欧化政策反対の意見が通らないので辞職し、木戸ひ とり朝にとどまっているのに対して世評が集中した時、福沢が木戸を慰めた。  明治8(1875)年11月8日付で井上馨に送った木戸の書簡に、福沢の自分に 対する「心切の考え」はすでにたびたび承知しているところだ、と記している。

明治10(1877)年2月、西南戦争が勃発すると、木戸はみずから反乱軍の 制圧に加わりたいと名乗り出たが許されず、同年5月26日、京都で死去した。