福沢諭吉と後藤象二郎2018/11/30 07:08

 福沢諭吉と後藤象二郎については、2010(平成22)年8月25日に「等々力 短信」第1014号に「後藤象二郎と福沢」を書き、関連する話をこのブログに 三日間書いた。 「等々力短信」第1014号だけを、下記に引いておく。

後藤象二郎の弁護人<小人閑居日記 2010. 8.26.>

坂本竜馬は「後藤象二郎の使い走り」か?<小人閑居日記 2010. 8.27.>

後藤象二郎と坂本竜馬<小人閑居日記 2010. 8.28.>

    等々力短信 第1014号 2010(平成22)年8月25日

                  後藤象二郎と福沢

 明治30(1897)年の夏も、暑かったらしい。 政治もまた停滞し、閉塞状 態にあったようだ。 8月4日に後藤象二郎が亡くなり、福沢諭吉は6日の時 事新報に「後藤伯」と題する社説を書いている。 今の政府は、部内の情実の ために百事停滞、活動の活機を欠くこそ目下の弊恨にして、あたかも昨今の天 候と同じに、暑気蒸すが如く、人を悩殺せしめて、ほとんど堪え難き有様なの に、満朝(政府全体に)一人の自ら奮ってその弊恨を破る者がいない。 この 時に当って風雷一発、天地を振るい動かして、積り積もった諸悪をはらい除い て清めることは、非常大胆の豪傑でなければ出来ない。 後藤伯のごときは、 この一点において、満天下唯一の人物で、今の朝野に伯のほかにこの大任に当 たれるものはいなかったのにと、後藤象二郎の死を、惜しんでいる。

 『福澤諭吉書簡集』第二巻「ひと」によると、後藤象二郎は、天保9(1838) 年、土佐国高知城下片町に生まれ、義叔吉田東洋に学び、中浜万次郎に海外事 情を聞き、鶴田塾に通った。 文久3(1863)年航海見習生を経て、江戸に出 て開成所に入り、航海術、蘭学、英学を学んだ。 福沢との出会いは未詳だが、 あるいはこの時期であったかもしれない、という。 元治元(1864)年、帰国 し、岩崎弥太郎と開国策を草し、大監察に任じられ、慶應元年、勤王党を断罪 し、藩の実権を握った。 薩摩、長崎、上海で、藩官業樟脳の売却と、艦船、 銃砲の購入にあたり、坂本竜馬と出会い、公武合体策を山内容堂に説き、慶應 3(1867)年将軍徳川慶喜を説得して大政奉還の建白を行わせた。 福沢は、 これを後藤最大の業績と評価し、上の弔文でも「明治革新の基を開きたる一事」 「非常に大胆の人物、如何なる大事に当たりても毫も驚かず」と書いている。

 佐賀藩とイギリスのグラバー商会が共同でわが国最初の洋式炭鉱として開発 した高島炭鉱を、明治6年新政府が買収、官有とし、明治7年後藤象二郎に払 い下げる。 後藤はその時、ジャーディン・マセソン商会から代金と運転資金 を借り入れたが、経営が放漫であったため利益が上がらず、負債が累積して、 商会から返済を求める訴訟を起こされる。 福沢は後藤の政治的資質を惜しみ、 放漫経営による経済的破滅を心配して、高島炭鉱の経営を三菱に移すことを良 策と考え、岩崎弥太郎にも提案する。 その時はまとまらなかったが、1年9 か月の曲折を経て、明治13年7月、岩崎は炭鉱の買収を決意する。 三菱の 経営で、高島炭鉱は巨額の利益をあげるようになった。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック