「神政府」批判の背景は政府の民衆教化政策2018/12/18 07:23

 小川原正道さんは続いて、福沢の「神政府」批判の背景を考察する。 「教 部省・大教院体制 : 全国各地で教導職による民衆教化政策」からだが、それに 触れる前に、私がこの日記に書いた関係のものを掲げておく。 

「廃仏毀釈」と、神祇官という役所<小人閑居日記 2012. 3. 19.>

東京遷都と皇大神宮遥拝殿<小人閑居日記 2014.6.24.>

「王政復古」と明治の国家神道<小人閑居日記 2018.2.9.>

「国家神道とは何か」神社無宗教論<小人閑居日記 2018.2.10.>

2月10日には「維新のスローガンは「神武創業の頃に戻る」、復古的な施策 の一つとして慶應4年に神祇官が設置され、明治2年には太政官の外に特立す る。 二官八省、まさに律令時代の復活だ。 明治元年の神仏分離によって、 神社と寺院が完全に分けられる。 明治2年宣教使を設置、大教宣布の詔を発 して、国民教化運動が始まる。 キリスト教対策と大衆をいかに国民としてま とめていくかが、目的だった。」と書いていた。

 そこで小川原正道さんの話に戻ると、興味深かったのは、王政復古・祭政一 致・宣教使のところで、「皇学者流」=「平田派国学」で、平田派国学を信奉し た薩摩系官僚が千の寺院を廃止した。 それがやがて長州閥の宗教官僚が次第 に力を得たという指摘だった。

 明治5(1872)年3月神祇官を廃止して、教部省に再編される。 祭政一致 から神道重視への衣替え。 大教院は、翌明治6(1873)年6月「天照大御神 ノ御厨ノ地」芝・増上寺に移転した開設式で西川須賀雄が三条教則を講じ、記 紀神話、天皇皇室に関連づけた道徳や法の遵守を説いた(神道式説教)。 「神 主仏従」へ、「皇学者流」の台頭と影響力拡大。 福沢は、王政復古で「神政府」 の時代に復帰するとして、「皇学者流」を批判したが、政策の主体は批判しなか った、平石直昭氏のいわゆる「処方箋を提示するスタイル」。

 明治8(1875)年5月大教院解体(『文明論之概略』出版の1か月後)。 島 地黙雷(長州、岩倉使節団で渡欧)は政教分離、信教の自由を主張して、神道 の下にあった仏教の再生と大教院からの分離を説く。 明治10(1877)年教 部省廃止、明治15(1882)年神官教導職分離。 福沢は「皇学者流」批判を 停止する、明治17(1884)年8月12日(?)の時事新報社説は宗教行政の変 化について、制度的説明をしただけ。

 小川原正道さんは、「むすびに代えて」として、福沢の『帝室論』(明治15 (1882)年)との関連を述べた。 『帝室論』は、帝室の独立を主張し、政治 の実務機能を求めない。 「帝室は万機を統るものなり、万機に当るものに非 ず。統ると当るとは大に区別あり。」 政治の権威と権力を合一化すると、そこ に現れるのは「神政府」。 帝室の文化的側面を強調、一国の緩和力としての帝 室を説いた。

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