再録「西岡秀雄先生の「気候700年周期説」」2018/12/11 07:21

 11月20日から25日まで書いていた朝日新聞土曜版連載の「木簡の古都学」 だが、もう一つとても興味深いことがあった。 「年輪年代学」という研究分 野がかなり進んでいるという話だった。 私は55年以上も前になる学生時代、 文化地理研究会というクラブで西岡秀雄先生にご指導いただいた。 人文地理 学を講義しておられた西岡先生は、気候700年周期説を唱えていた。 私は 2011年10月9日のこの日記に「西岡秀雄先生の「気候700年周期説」」とい うのを書いていたが、そこにも「奈良文化財研究所」や「年輪年代法」が出て きていたのである。 まず、それを引いておく。

   西岡秀雄先生の「気候700年周期説」<小人閑居日記 2011. 10.9.>

 「西岡秀雄先生 お別れの会」で、4年先輩の岡田民雄さん(日本ルツボ(株) 代表取締役会長)が、特に西岡秀雄先生の「寒暖の歴史 気候700年周期説」の 話をされた。 慶應には先生のこの研究を引き継いでいる研究者がいないのだ そうだ。 岡田さんは、お仕事柄、地球温暖化の問題に強い関心を持っておら れ、それに関連して西岡先生の「気候700年周期説」がもっと研究されるべき だと考え、われわれもそれに関心を持とうというお話だった。

 岡田さんは、私が大学に入った年に卒業されていて、文化地理研究会では入 れ違いのはずなのに、1年生の時にいろいろと引き回して頂いた思い出がある。  それほど家族的なクラブだったわけだ。 その岡田さんが、私のブログの西岡 先生や「気候700年周期説」について書いたものを読んで下さったという。 そ して、これからも勉強しようよ、と声をかけて下さった。 そこで取りあえず、 今までブログに、西岡秀雄先生について書いた<小人閑居日記>と<等々力短 信>を整理してみたので、ご参考までに最後に掲げる。

 私が、地球温暖化は炭酸ガスでなく太陽活動が原因とする説があると紹介し たのは、福澤諭吉協会で前神奈川大学学長桜井邦朋さんの講演を聴いて、「気候 700年周期説」を思い出したからであった。

 「西岡秀雄先生 お別れの会」で、秘書の谷珠得孔さんが言及されたのは、法 隆寺の金堂や五重塔が天智9(670)年の火災の以前に建てられたかどうかとい う論争に関する問題だろう。 奈良文化財研究所の光谷拓実、大河内隆之両氏 の「年輪年代法による法隆寺西院伽藍の総合的年代調査」(『仏教芸術』第308 号、2010年1月)という最新の研究がある。 両氏は、1950年代に早くも西岡 秀雄先生が法隆寺五重塔心柱や夢殿桁材の年輪計測によって再建説を否定した 先駆的研究をしている事実を、特筆している。

           記

太陽活動と地球温暖化<小人閑居日記 2005.9.26.>

「科学する心」理数系に弱い日本人<小人閑居日記 2005.9.27.>

西岡秀雄先生の『気候700年周期説』を探す<小人閑居日記 2008. 7.30.>

『寒暖の歴史 気候700年周期説』<小人閑居日記 2008. 7.31.>

地球温暖化は炭酸ガスでなく太陽活動が原因とする説<小人閑居日記 2008. 8.1.>

氷河期から縄文までも気候変動<小人閑居日記 2008. 8.2.>

太陽活動が歴史に影響した<小人閑居日記 2008. 8.3.>

好奇心の泉源、雑学の模範<小人閑居日記 2008. 8.4.>

『寒暖700年周期説』 等々力短信 第990号 2008(平成20)年8月25日

『気候700年周期説』と御神渡り<小人閑居日記 2010. 5.15.>

西岡秀雄先生、「ありがとうございました」<小人閑居日記 2011. 8. 19.>

「鎌倉仏教の繁栄、もう一つの秘密」<小人閑居日記 2011. 8. 20.>

再録「『寒暖の歴史 気候700年周期説』」2018/12/12 06:33

 話の流れをわかりやすくするために、リストの中から、西岡秀雄先生の『寒 暖の歴史 気候700年周期説』について、まとめたものも、再録しておく。

    『寒暖の歴史 気候700年周期説』<小人閑居日記 2008. 7.31.>

 西岡秀雄先生が『寒暖の歴史 気候700年周期説』(好学社)の初版を出し たのは、昭和24(1949)年9月35歳の時だった。 大正2(1913)年10月 6日生れの先生は、現在94歳になられ、お元気だと聞いている。

 西岡先生は、日本に生育した老樹の年輪、河川湖沼の凍結記録、アシカのよ うな北洋海獣の南下、ハイガイその他の特殊魚介類の消長、東北に多く出土す る遮光器土器(雪めがねだと考える)、トチノキ自生地帯の推移、桜の開花時期 の遅速、オーロラの出現頻度、近年の気温上昇化現象、遊牧民族の移動、等々 多方面の資料を駆使して、日本のみならず世界で、約700年を一波長とする寒 暖の波が過去数千年間に繰り返し訪れているという事実を見出し、仮説として 世に問うた。

 気候700年周期を、日本の政治史、文化史で見てみると、政治の中心が、暖 かい奈良・平安時代には関西地方に占められていたが、寒い鎌倉時代には関東 地方に政権の中心が移った。 しかも暖かい室町・桃山時代には、再び関西へ、 そして寒い江戸時代とそれに続く明治時代には関東へという具合になる。 文 化史では、暖かい奈良・平安時代には明るくロマンチックな王朝文化が栄え、 寒い鎌倉時代には質実剛健の気風がみなぎる。 暖かい室町・桃山時代には、 再び絵画・建築・庭園などの文化が進み、寒い江戸末期は天保・天明の大飢饉 を始め社会不安が次第に増大していった、というのである。

「年輪年代学」の進歩と可能性2018/12/13 07:07

 10月27日の「木簡の古都学」27を書いた、奈良文化財研究所主任研究員の 星野安治さんは「年輪年代学」を専門としている。 「木簡」は完全な形で出 土するのは珍しく、大多数は割れたり折れたり、あるいは表面を削りとった削 屑(けずりくず)の状態で見つかる。 東野治之氏の『木簡が語る日本の古代』 (岩波新書・1983年)の冒頭に、5点の削屑がつながり全長30センチ近くに もなった事例が紹介されているそうだ。 星野安治さんは、この本を読んで、 「木簡」の研究にも「年輪年代学」が応用できるのではないかと考え、現在「木 簡の年輪年代学」と題した研究プロジェクトを推進している。

 木の年輪は1年に1層ずつ形成されるが、同じ時代、同じ地域に生育した木々 の年輪変動が類似するという性質がある。 年輪年代学ではこれを活かし、伐 採年がわかっている試料をもとに構築された標準年輪曲線と照合して、分析対 象に刻まれる年輪の形成された年を、1年単位の精度で誤差なく明らかにする ことができるのだそうだ。

 加えて、年輪形成が地域的な気候要素の影響を受けて変動する特性を利用す れば、古気候の復元や、木材の産地推定なども可能だ。 このように「年輪年 代学」は、年代測定だけでなく、総合的な学問分野といえるのだ、という。

 現在のプロジェクトでは、別個の木より同じ木の年輪曲線の方が、類似度が 高いという性質に基づいて、特に同一材の推定に焦点を当てている。 この分 析を、「木簡」をはじめとする木質遺物に応用すれば、どれとどれが元は同一材 であったかがわかる。 それだけでなく、含まれる年輪の新旧関係から、どの 部位がつながる可能性が高いかも指摘できるようになる。 「木簡」の形状や 内容に、年輪からの情報も付加することで、断片同士を接合し、元の姿に近づ けて、多くの情報を得る、接合検討がより容易になる。 さらには、これまで 明らかになっていなかった同一の「木簡」を見出すことも期待できるのだそう だ。

聖武天皇の皇太子時代の資料群と推定2018/12/14 07:07

 「年輪年代学」の通常の年輪年代測定では、分析対象に約100層以上の年輪 が刻まれていることが条件とされる。 しかし、1点1点の「木簡」や小型の 木製品には数十層程度の年輪しか含まれていない。 それでも「年輪年代学」 の対象になりうるのか、最初は不安だったという。 「斎串(いぐし)」という 木製の祭祀具が、奈良文化財研究所の庁舎の建て替えに伴う発掘調査の際に、 一カ所にまとまった状態で出土した。 「年輪年代学」の方法で木目を数値化 およびグラフ化してみたところ、似通った「斎串」同士は年輪のグラフもぴっ たり一致し、同一材からつくったことが判明した。 発見はそれだけではなく、 木目の検討からは一群の「斎串」たちが四つのグループに分類でき、かつ同グ ループ内の「斎串」は同一材からつくられたことがわかった。 また、完成品 の「斎串」だけでなく、割ったままの板材も一緒に出土しており、両者が元は 同一材であることもわかった。 こうして、板材をどのように割り割いて「斎 串」を作り出したかという、製作工程を鮮明に復元することができたのである。

 こうした調査成果をうけて、本格的に「木簡の年輪年代学」が取り掛かられ る。 最初の調査対象に選んだのは、2013(平成25)年度冬の発掘調査で出 土した「木簡」、斎串よりもさらに小さな「削屑(けずりくず)」だ。 法華寺 旧境内のすぐ南に隣接した所で、平城京の条坊道路の側溝や塀とみられる掘立 柱列などに加え、東西方向の溝が見つかった。 この東西溝からは計4355点 (うち削屑4253点)もの「木簡」が出土した。

 「皇」、「太子」と読める注目すべき2点の「削屑」があった。 この東西溝 は、検出状況に加え、養老7(723)年や神亀元(724)年の年紀を持つ「木簡」 が含まれることから、奈良時代前半に遡る遺構とみられる。 そして、この時 期の皇太子と言えば、東大寺の大仏建立などで名高い聖武天皇(即位前は首(お びと)皇子)を指すと考えられるのだ。 「年輪年代学」により、柾目材であ る両者の年輪を計測・分析したところ、年輪幅の増減のパターンに加え、実際 の年輪幅の数値までが、ほぼピタリと一致することがわかった。 両者が同一 木簡に由来する可能性が極めて高くなったのだ。 これによって、東西溝から 出土した「木簡」全体についても、皇太子時代の聖武天皇に関わる資料群であ る可能性が高まったといえるだろう、という。

荷札木簡から木材の産地に迫る2018/12/15 07:17

 「木簡の年輪年代学」の進展で、接合の検討により原材の姿を復元すること ができるようになり、同一材由来の年輪曲線は、100層以上にまでなった。 こ のように長期間となった同一材由来の年輪曲線は、年輪年代測定や木材産地推 定の基準となる標準年輪曲線とも照合できたのである。

 この成果に基づき、荷札木簡を用いた古代における木材産地推定の可能性も 出て来た。 これまで蓄積された標準年輪曲線を整理してみると、例えば東北 地方の日本海側と太平洋側とでは照合できない場合があるなど、年輪変動の地 域的な違いがあることがわかってきている。 全国から奈良の平城宮・京に集 まってきた荷札木簡に注目する。 調庸などの貢進に際して荷物に付けられた 古代の荷札は、税を納める側で作製され、都に運ばれて破棄されたと考えられ ている。 つまり、各地で生育した木を材料とし、しかも多くはその生育した 地域名が記されているのだ。 この荷札木簡を素材に、地域別の標準年輪曲線 を作成する。 そして、年輪変動の地域的なまとまりを明らかにすることで、 古代の年輪年代学的な木材産地推定をおこなう基盤を構築することができると 見込まれるのだ。

 平城宮・京跡から出土した荷札木簡には、上総国(千葉県中部)から送られ た高級乳製品「蘇(そ)」、紀伊国无漏(むろ)郡からの「鯛」、周防国大嶋郡務 理里からの「塩」などのものがあり、目の詰まった良材が荷札として各地から 集まっている。 木簡は「木」としても、古代の貴重な情報の宝庫なのである。