「墨丸」の岡崎とその時代2019/01/08 07:22

 「お石(いし)が鈴木家へひきとられたのは正保(しょうほう)三年の霜月 のことであった。江戸から父の手紙を持って、二人の家士が伴って来た、平之 丞(へいのじょう)は十一歳だったが、初めて見たときはずいぶん色の黒いみ っともない子だなと思った。」と、山本周五郎の「墨丸」は始まる。 お石は五 歳、父上の古い友人のお子だが、ご両親とも亡くなった、よるべのない気のど くな身の上、これからは妹がひとりできたと思って劬(いたわ)ってあげて下 さい、と母は平之丞にいう。 鈴木家は、岡崎藩の老職の家柄で、屋敷の五段 ほどもある庭には丘や樹立や泉池などがあり、同じ年ごろの友達との恰好の遊 び場だった。 お石は、起ち居もきちんとしたはきはきした子で、みなしごと いう陰影など少しもなく、云いたいこと為たいことは臆せずにやる、爽やかな ほど明るいまっすぐな性質に恵まれていた。 友人達は、その性質がわかるに したがって、しぜんと好感をもつようになり、よく仲間にして遊びたがった。  それにしても、色が黒いので、少年たちは「お黒どの」とか「烏丸」とか陰で 色いろ綽名を呼んだ。 平之丞は、気にもならなかったが、或るときふと哀れ になり、どうせ云われるならこちらで幾らかましな呼び方をしてやろうと思い、 「黒いから墨丸がいい」と主張した。 「すみまる」という音は耳ざわりもよ いし、なにごころなく聞けば古雅なひびきさえある、それで少年たちはみなそ う呼ぶようになった。

 江戸詰めの年寄役だった父の惣兵衛が、それから六年めの慶安四年に岡崎へ 帰って来た。 国老格で吟味役を兼ねることになったのである。

 ここでちょっと小説を離れて、岡崎のことを見てみる。 徳川家康の生誕地 として知られる西三河地方の中心都市である。 岡崎城は三河守護代西郷稠頼 (つぐより)が康正元(1455)年に築き、のちに松平清康(家康の祖父)が入 城し、本格的な城下町をつくったのは天正18(1590)年田中義政だった。 江 戸時代には五万石の城下町、本多、水野、松平(松井)、本多の歴代城主は譜代 大名で幕府の要職についた。

 「墨丸」に出てくる藩主、「けんもつ忠善」と、その世子「うえもんのすけ忠 春」は、水野氏である。 水野忠善は正保2(1645)年に三河吉田から入部し、 二代水野忠春は幕閣の奏者番・寺社奉行に就き、多額の経費が掛かったという。  正保2(1645)年は、お石が鈴木家に来る前年である。 その年、数え十歳だ った鈴木平之丞は、寛永12(1635)年生れという勘定になる。 寛永14年に は島原の乱があり、時代は慶安-承応-明暦-万治-寛文-延宝-天和-貞享(じょうき ょう)と変わり、貞享2(1685)年には五代将軍徳川綱吉の、例の生類憐みの 令が出ている。 貞享2(1685)年は、平之丞五十歳の時で、「うえもんのすけ 忠春」の側がしらに任じられ、その出頭を妬む者から讒訴されて、老臣列座の 鞠問(きくもん)をうけたが、私行のうえの根も葉もない事だったので、すぐ に解決し、右衛門佐の侍臣ちゅうでは無くてはならぬ人物に数えられるように なった。 貞享5(1688)年9月30日、東山天皇の即位で、元禄元年となる、 そんな時代であった。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック