平之丞がお石を恋し、嫁にと望むが、去られる2019/01/09 08:18

 「墨丸」のつづき。 父の惣兵衛が岡崎に帰ると間もなくから、お石は榁(む ろ)尚伯という和学者のもとへ稽古に通い、歌など作るようになった。 母に 見せられた萩を詠んだ一首に、墨丸と記しているのをみつけ、平之丞は心にか すかな痛みを感じた。 十三歳になったお石が思い詰めた様子で平之丞の部屋 に来て、平之丞が祖父にもらい大切にしていた牡丹の葉と花を浮き彫りにした 翡翠の文鎮を貸して頂きたいと言ったので、渡してやった。 鈴木家には、惣 兵衛の好みで、しばしば旅の絵師や畫家などが滞在した。 なにがし検校とい う琴の名手が、あしかけ四年あまりも滞在し、そのあいだにお石に琴を教えた。  検校は、特殊の感覚を持つお石の恵まれた素質を褒めたが、その道で身を立て られるかという父の質問に対し、お石の琴は人を教えるには格調が高すぎて、 なかなかな耳ではついていけない、と云った。

 十七になったお石を、花見の宴で着飾った十人ばかりの娘たちの中で見た平 之丞は、際だって美しいと思った。 お石のぜんたいから滲みでるもの、内に あるものがあふれ出る美しさだった。 お石を見なおすようになると、事の端 はしに、お石の心ざまの顕れをみつけてはおどろく例が少なくなかった。 人 の気づかないところ、眼につかぬところで、すべて表面よりは蔭に隠れたとこ ろで、緻密な丹念な心がよく生かされていた。 注意して見るにしたがって、 そういうことの一つ一つが平之丞の眼を瞠(みは)らせ、云いようもなく心を 惹きつけられた。 平之丞は母に「あれなら鈴木の嫁として恥ずかしくないと 思いますが、どうでしょうか」と相談した。

 父も初めは難色をみせたが、よかろうと承知し、はじめて母からお石に話を した。 するとお石は考えてみようともせず、きつくかぶりを振って断わった。  それから母は、色いろ条理をつくして説き、よく考えてみるようにと云ったが、 お石はいつものおとなしい性質に似あわない頑なさでかぶりを振りつづけた。  「それにわたくし近ぢかにおゆるしを願って、京の検校さまの許(もと)へま いりたいと存じていたのですから」 まさかと、裏切られた人のように眼をい からせる母をなだめながら、平之丞がいちど自分からじかに話してみようと考 えた。 然しそのおりも来ないうちに、突然父が倒れた、城中で発病し、釣台 で家へはこばれて来たが、意識不明のまま三日病んで死去した。

 悲嘆のなかでも平之丞はとり返しのつかぬことをしたのに気づいた。 それ はお石の素性が知れずじまいになったことだ。 母も「旧知の遺児である」と しか聞いていなかった。 忌が明けると間もなく、お石はついに鈴木家を出て 京へのぼることになった。 お石がたのんだのだろう、和学の師・榁尚伯がき て、母と平之丞を説き、「琴のほかに学問も続けたいと云っておられるし、さい わい京には北村季吟と申す学者がおり、以前から親しく書状の往来があるので、 私から頼めばせわをしてくれることでしょう、お石どのは国学にも才分がおあ りだから、場合に依ればこのほうでも身を立てることができると思います」ど うか望みをかなえてお遣りなさるように、老学者らしい朴訥な口ぶりでそう云 うのだった。 お石は泣かず、信じられないほどあっさりと、まるで旅人が一 夜の宿から立ってゆくかのように、さばさばと鈴木家から去っていった。

 小説から脱線して、北村季吟だが、川口祥子さんの「柳沢吉保と六義園」と いう講演で聴いて、<小人閑居日記 2018.10.11.>に「「古今伝授」北村季吟 →柳沢吉保、「六義園」」というのを書いていた。 元禄2(1689)年、北村季 吟が66歳で幕府歌学方になったのが、柳沢吉保(32歳)との出会いだったそ うだ。