藩の秘事と「八橋の古蹟」で2019/01/10 07:16

 平之丞がお石を見直した花見の宴で、藩の秘事に関する噂が友人達の話題に 出た。 藩主水野家の世子右衛門佐忠春が水戸の御胤(おたね)だという噂だ。  忠春は、けんもつ忠善の次子だが、長子の造酒之助(みきのすけ)が早世した ため世継ぎとなった。 忠善が水戸中将(光圀)に心酔していて、そのあまり 懇願して、誕生前から御子を頂戴する約束をし、出生すると産着のまま屋敷に お迎えした、その証拠に右衛門佐のお守りは葵の御紋ちらしだというのだ。 そ れについては、もう一つの秘事があり、十余年前に江戸屋敷で小出小十郎とい う者が切腹した。 小出は、島原の乱でめざましく働いた浪人で、忠善に見出 されて篤く用いられた。 非常に一徹な奉公ぶりで知られ、重代の者にも云え ないような諫言をずばずば云うし、家中とのつきあいなども廉直無比で名高か った。 それが忠善の忿(いか)りにふれて生涯蟄居という例の少ない咎めを うけたが、その命のあった日に切腹した。 実は造酒之助在世中で、小出は御 家の血統のため、右衛門佐を廃し、造酒之助を世子に直すよう、繰返し直諫し たので、忠善が「あらぬことを申す」とひじょうに忿り、重科を仰せ出された という。 平之丞は話をさえぎり、「殿があらぬことを申すと仰せられたのなら それが正しいに違いない、そういう噂は聞いた者が聞き止めにしないと、尾鰭 がついて思わぬ禍を遺すものだ、ほかの話をしよう」と云った。

 平之丞は二十七歳の時、花見の宴を催した友人の妹を娶った。 平凡だが温 かいしずかな結婚生活だったが、六年目の秋、三人目の子を身ごもったまま、 あっけなく世を去ってしまった。 母が丈夫で二児の養育を引き受けてくれ、 再婚はしなかった。 三十二歳で忠春の側がしら、四十五歳で国老に任じられ、 藩の中軸といわれる存在となった。

こうして平之丞は五十歳になった。 忠善はすでに逝去し、忠春が従五位の 右衛門太夫に任じていた。 その年の秋、公務を帯びて京へのぼった帰りに、 岡崎までもう三里という池鯉鮒の駅に着いたとき、彼はその近くに名高い「八 橋の古蹟」という名所があるのを思い出した。 伊勢物語の一節など思い出し ながら、むかし杜若のあった跡だという丘ふところの小さな池をめぐり、業平 塚なども見てやや疲れた彼は、すぐ近くにひと棟の侘びた住居のあるのをみつ け、暫く休ませてもらおうと思ってその門をおとずれた。 折戸を明けて庭へ はいると、縁先に切下げ髪にした中年の婦人がいて、請うとしとやかに立って、 「どうぞお掛けあそばせ」とそこへ座を設けた。 平之丞は、縁さきまで来る とはっとして立ちどまった。 そしてわれ知らず昂ぶったこえで、「お石どので はないか」と叫んだ。 婦人は眼をみはってこちらを見たが、「ああ」とおのの くような声をあげ、まるで崩れるようにそこへ膝をついた。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック