大津波と浜口梧陵、和歌山と福沢・慶應義塾2019/01/19 07:19

 浜口梧陵については、まだブログに配信する前の「等々力短信」に、「大津波 と浜口梧陵」<等々力短信 第947号 2005.1.25.>を書いていたので、あと で引く。 和歌山と福沢諭吉・慶應義塾の関係、福沢諭吉と浜口梧陵、その和 歌山教育史との関係については、下記を書いていた。

拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その1<小人閑居日記 2012. 9. 22.>

拙稿「和歌山と福沢諭吉・慶應義塾」その2<小人閑居日記 2012. 9. 23.>

「紀州塾」、福沢が方向づけた和歌山の教育<小人閑居日記 2012. 9. 24.>

〈明治前期〉教育史と紀州の中学の個性<小人閑居日記 2012. 9. 25.>

県立和歌山中学と、自由民権運動の中学<小人閑居日記 2012. 9. 26.>

      等々力短信 第947号 2005(平成17)年1月25日

                  大津波と浜口梧陵

 番組表に「浜口梧陵」の名前があったので、13日NHK放送の“その時、歴 史が動いた”「百世の安堵をはかれ―安政大地震・奇跡の復興劇」を見た。 黒 船に開国を迫られた幕末の動乱期、三つの巨大地震が日本を襲った。 嘉永 7(1854、改元されて安政元)年11月4日、下田でプチャーチンのディアナ号を 大破した安政東海地震が発生、その30時間後の5日の夕方には、紀伊半島南 部と四国南部が震度6以上の安政南海地震に見舞われ、紀伊半島南西岸から土 佐湾沿岸を大津波が襲って、多数の死者が出た。 銚子と江戸で醤油醸造業(ヤ マサ)を営み、半年は故郷の紀州広村(現、広川(ひろがわ)町)で暮していた浜口 梧陵は、地震直後、海の様子を見に行き、真っ暗で、閃光が走り、雷のような 物凄い音を聞いた。 津波の襲来を予感した梧陵は、村民に高台の八幡神社へ の避難を呼びかけて回り、暗闇で道がわからないと見ると、たいまつで稲むら に火を放ち、避難路を照らした。 地震発生から40分で津波の第一波が到着、 5回にわたり最大5mの津波が押し寄せた。 浜から神社まで1.7km、避難に は20分かかる。 津波を予感した梧陵の早い判断と的確な避難指示によって、 全村民の97%の生命が救われた。

しかし地震と津波による被害は甚大で、梧陵が私財で仮小屋50軒を建て、 農具などを提供しても、離村者が出るようになった。 梧陵は村人に希望と気 力を取り戻させるため藩に願い出て、私財を投じ、村人の働きには給金を出し、 津波を防ぐ大堤防の建設に着手する。 翌安政2(1855)年の安政江戸地震で江 戸の醤油店が罹災、閉鎖に追い込まれたものの、銚子で最高の生産高を上げて 堤防建設に送金し、安政5(1858)12月、これだけの規模の盛り土堤防は世界最 初、村民の自助努力で防災と生活支援を同時に実現した復興事業も画期的とい う「広村堤防」が完成する。 下って昭和21(1946)年、M8.0の昭和南海地震 では、高さ4mの津波が襲ったが、村の大部分は被害を免れた。

『福澤諭吉書簡集』に、浜口儀兵衛(梧陵)あて書簡が3通、浜口の名の出て くる書簡が10通ある。 梧陵は慶応4(1868)年、和歌山藩の藩政改革で抜擢さ れて勘定奉行となり、翌明治2年藩校の学習館知事に転じ、明治3年松山棟庵 の協力を得て洋学校・共立学舎を設立した。 この時、旧知の福沢を招聘しよ うとしたが、福沢は受けなかった。 だが二人の交際は続き、晩年の梧陵が計 画し明治18(1885)年ニューヨークで客死することになる世界一周視察旅行に は、福沢が格段の配慮をしている。