山本周五郎の「馬込村」、隣の中延で育つ2019/01/23 06:26

 近くの図書館に、木村久邇典さんの『書簡にみる山本周五郎像』(未来社)と いう本があったので、それも参照している。 山本周五郎は若い頃から、徹底 した「メモ魔」であり、「手紙書き魔」であったという。 後年、原稿を書き上 げると、原則として、稿料と引き換えを強く要求した。 古いつきあいの雑誌 社なら、原稿の進行中に「前払い」してもらっているのが常態で、みずから「前 借魔」を以て任じていたが、それは自分をぎりぎりの経済状態に追い込むこと で、その社に最高のモノを書くための原動力とする必要から、という山本周五 郎独特の処世哲学に拠ったごとくであったそうだ。

 山本周五郎は、27歳の昭和5(1930)年11月、土生(はぶ)きよ“以”(変 体仮名)と結婚した。 たまたま慶應病院に入院し、見習い看護婦の土生きよ 以を知り、芯の強そうな彼女に好意を抱いた。 きよ以からすでに許婚がある と聞いた青年の慕情は、それゆえに激しい恋ごころに変わった。 山本はこう 語ったという、「一種の略奪結婚だった。もし彼女が身辺の事情を打明けなかっ たら、それきりになったかもしれない。ぼくは自分の好もしいものは、どんな 手段に訴えてでも、手中にしなければ気のすまぬ男だった」

 新居を構えた神奈川県腰越から、翌昭和6(1931)年1月、東京大森の南馬 込に移転し、昭和21(1946)年2月まで文人や画家などが多く住み「空想部 落」と称された「馬込村」の住人となる。 東京都大森区馬込町東3丁目843 番地、木村さんが訪ねる最寄り駅は、大井町線の荏原町だったそうだ。 実は 私、荏原町の隣駅、中延の近くの第二京浜国道沿い、国道から三軒目の家で育 った。 戦争中の昭和20(1945)年5月4日に、きよ以夫人が肝臓癌で亡く なる。 その20日後の5月24日夜からの空襲に遭い、4歳の私は父に負ぶわ れ、母と兄、祖母と馬込方面へ逃げて、中延と馬込の中間にある立会川の橋の 下で一夜を明かして、助かった。 五反田方面へ逃げていたら、焼け死んでい たかもしれない。 きよ以夫人が亡くなった時、戦時下で窮乏はげしく(おそ らく物資もなく)、山本は本棚をほどいて棺桶をつくり、秋山青磁(またいとこ・ 写真作家)と二人で桐ケ谷の火葬場へ運んでいったそうだ。 五反田方面へ向 かう第二京浜国道の下に、当時、池上線の桐ケ谷駅があった。

 私には山本周五郎と、東京の同じ地域で戦争末期と戦後初期を過ごしたとい う、ご縁があったのだ。 馬込といえば、子供の頃、自転車に乗れるようにな ると、よく第二京浜国道を馬込のロータリー(立体交差)まで行って、品鶴線 に貨物列車が走るのを見に行った。 今、新幹線や横須賀線が通っているとこ ろである。 さらに足を延ばして、多摩川大橋まで行くのが、大冒険だった。