志ん生の稽古熱心、馬生・志ん朝も2019/02/04 07:05

 大河ドラマ『いだてん―東京オリムピック噺』の中で、古今亭志ん生(ビー トたけし)が下に電車が走っている公園のベンチのような所で、噺の稽古をし ている場面があった。 それで思い出したのは、ドラマでは小泉今日子が演じ ている志ん生の長女・美濃部美津子が書いた『志ん生・馬生・志ん朝 三人噺』 (扶桑社)という本である。 「稽古熱心」という章があるからだ。

 それはひとまずおき、その本の巻末にあった「美濃部一家の歴史」という年 表を見ておきたい。 志ん生の美濃部孝蔵が清水りんと結婚したのが、1922(大 正11)年。 ドラマではこの妻りん(役名おりん)を、長男・清(金原亭馬生) の娘・池波志乃が演じている。 1924(大正13)年長女・美津子誕生、1925 (大正14)年次女・喜美子誕生。 1926(昭和元)年田端から笹塚へ転居、 その翌年幡ヶ谷へ転居し、笹塚に戻り、さらに和田堀町方南に転居。 1928(昭 和3)年長男・清誕生、本所区業平橋、ご存知「なめくじ長屋」に転居。 1936 (昭和11)年浅草区浅草(本は駒込となっているが誤りと思われる)永住町へ 転居、翌年本郷区駒込神明町へ転居。 1938(昭和13)年次男・強次(古今 亭志ん朝)誕生。 1943(昭和18)年清入門、むかし家今松で初高座を勤め る。 1945(昭和20)年戦災に遭い、本郷区駒込動坂へ転居。 志ん生、満 州へ慰問興行へ。 1947(昭和22)年志ん生、満州より帰国。 1949(昭和 24)年清、金原亭馬生(十代目)を襲名、真打に昇進。 1951(昭和26)年 荒川区日暮里へ転居。 1957(昭和32)年強次入門、古今亭朝太で初高座を 勤める。 1961(昭和36)年志ん生、脳溢血で倒れる。 1962(昭和37)年 強次、古今亭志ん朝(三代目)を襲名、真打に昇進。 1971(昭和46)年り ん死去(享年74歳)。 1973(昭和48)年志ん生死去(享年83歳)。 1982 (昭和57)年馬生死去(享年54歳)。 2001(平成13)年志ん朝死去(享年 63歳)。

 そこで「稽古熱心」だが、志ん生は若い頃から、道楽をしたり、寄席をクビ になったりしたこともあるけれど、噺の稽古だけはどんなときも忘れなかった という。 「なめくじ長屋」にいたころも、毎日必ず稽古をしていて、何せ六 畳間とりんさんが内職していた二畳しかないので、子供が三人いては気が散る から、外に出されて、遊んでいる二時間か三時間、稽古していた。 歩きなが らでも稽古をしていた。 寄席までは歩いて通うのだが、上野や浅草の寄席に 行く道中に稽古する。 歩きながら稽古するのは、馬生や志ん朝もそうだった ようで、志ん朝の弟子から「ウチの師匠には、『噺家は歩きながら貯金ができる』 と、言われました」と聞いた。 三人の芸風はそれぞれ違うけれど、「稽古熱心」 という点では、三人ともまったく一緒だった、と美津子さんは書いている。

 「お父さん(志ん生)の稽古熱心は、売れてっからも変わりませんでした。 当時は日暮里に住んでて……そこが終の棲家にもなりましたが……、すぐそば に谷中の諏訪神社があるんですよ。人が全然、来ないとこだから、稽古するに はもってこいの場所だったんでしょうね。崖っぷちのとこがあって、ちょうど 下を山手線と京浜東北線なんかが走っててね。そこに置いてある椅子に座って、 「えぇー、というようなわけで……」なんて、やってたみたいですよ。」  宮藤官九郎さんは、これを読んだのだろうか。

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