志ん生の娘、美津子さん2019/02/06 06:32

 大河ドラマ『いだてん』で、古今亭志ん生(ビートたけし)が「東京オリム ピック噺」を語る場面、当時の人形町末広を下敷きにしているのではないかと 思われるのだが、客席の座椅子のような背もたれが気になる。 座布団だけで、 こんなものはなかったと思うからだ。

 3日の第5回「雨ニモマケズ」では、志ん生の噺が「芝浜」のはずなのに、 羽田の「東京オリムピック噺」になって、二階の袖から見ている娘の美津子(小 泉今日子)と、弟子の五りん(神木隆之介)とその彼女・知恵(川栄李奈)が、 おかしいと言う。 八木忠栄さんの『ぼくの落語ある記』(新書館)の「古今亭 志ん生(五代目)」に、こんなエピソードがあったので、書いておく。 志ん生 最後の高座となったのは、昭和43(1968)年10月に演じた「王子の狐」だが、 実はこの時、「二階ぞめき」をやるはずで始めたのだが、途中からいつの間にか 「王子の狐」に変わってしまった。 そのことを、高座から下りてから、娘の 美津子にとがめられると、「ああなっちゃったもン仕方ねえ」と答えたという。  八木忠栄さんは、「ああ、まったくもって、言うことやること、いかにも、どう しょうもなく、全部まるごと志ん生ですなあ。それでも、五年後に八十四歳で 亡くなるまで、噺の稽古に余念がなかったという。俳句はやらなかったが、川 柳に熱心でいくつか残されている。いずれも屈託がない。

  蚤の子は親の仇と爪を見る

  味の素あまり不思議でなめてみる

  借りのある人が湯ぶねの中にいる

  気前よく金を遣った夢を見る

 戒名は、松風院孝誉彩雲志ん生居士。」と、書いている。

 美濃部美津子さんは、貯金局を経て、昭和29(1954)年志ん生がニッポン 放送専属になった時、同時に「そのコネで」30歳でニッポン放送に入局した。  公開録音で、ほかの噺家は放送時間に合わせて、ほぼまとめてくれるのだが、 志ん生はそれができない。 「いざ本番となると、どうしても噺が延びちゃう。 短くまとめようと思っても、お客さんがワーッつってウケるとはしょれなくな っちゃうのね。/だからねあたし、言ったんです。/「お父さん、好きにやっ ていいよ。もう、やりたいだけやんなさい。後はあたしがうまいこと編集する から」って。」  「だから今、残ってるお父さんの落語のテープは皆、あたしが編集したもの なんです。/もっとも、これはあたしが志ん生の娘だからできたことなんでし ょうけどね。お父さん自身も、あたしにだから編集作業を任せられたんじゃな いかなって。お父さんが時間を気にせず、思い切り噺ができたと考えると、い くらかあたしも役に立てたんじゃないかと思ってるんですよ。」(『志ん生・馬 生・志ん朝 三人噺』)

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