「桂太郎を超えるのなら」2019/02/11 07:07

 昨日10日、三島弥太郎について、アメリカ留学から「帰国後、1897(明治 30)年貴族院議員に当選、桂太郎の後押しで最大会派「研究会」の代表者を務 め、桂の主唱する鉄道国有化を実現させた。」というのを発信して、朝日新聞朝 刊を開いたら、「桂太郎を超えるのなら」という曽我豪編集委員の「日曜に想う」 の見出しが飛び込んで来た。 (桂太郎は、軍人・政治家。陸軍大将。長州藩 士。山県有朋の下で軍制改革を推進、陸相。3度首相となり、日英同盟締結・ 日露戦争・韓国併合条約締結などに当たる。第1次憲政擁護運動によって下野 後、立憲同志会を組織。公爵。(1847~1913)(『広辞苑』)) 安倍晋三首相は 11月に、日露戦争時の首相で憲政史上最長だった桂太郎を、超えることになる という。 1913(大正3)年2月の第3次桂内閣の末期は悲惨だったそうだ。  長州の元老山県有朋の策略により内大臣として宮中に押し込められた桂は、天 皇の勅語という奇策を用いて政局の最前線に復帰、新党・立憲同志会を結成し 内閣の強化を図る。 だが第1次護憲運動の高まりに抗せず内閣は60日余で 倒れ、桂は病魔におかされ10月に急逝した。

 曽我豪編集委員は、今も昔も世評は容易に覆らず、桂も、要領と愛想が良い だけの「ニコポン宰相」とそしられ、その非立憲的な面ばかりが強調されてき たけれどと、通説への挑戦ともいうべき、もう一つの顏を、北九州大学の小林 道彦教授の『桂太郎 予が生命は政治である』(ミネルヴァ書房、日本評伝選) から紹介している。 「桂は山県の庇護の元で長く陸軍の軍政を担ったが、第 3次内閣の発足時には政党政治家として「覚醒」の時を迎えていたという。貴 族院議員田健治郎の日記には、桂が新党の「首領に当たるべきの大決心」と共 に「陸海両相文官を以て任ずべきの革新」を論じたとの記録が残る。/さらに 桂は行財政整理を掲げ、新たに国防会議を開いて新国防方針を決めるまでは陸 海軍の軍備計画は実施せず、各省同様の割合で一般会計に陸海軍が整理額を提 供することも想定していたという。/小林教授は、桂が「軍備の適正規模への 縮小をめざし」「それを山県閥ナンバー2の座をなげうって、新政党を結成する ことで成し遂げようとし」「政党勢力による陸軍軍政の管理・運営というところ まで行き着いた」と評価する。/歴史に「もしも」はないが、日本が別の道を たどった可能性はにじむ。陸軍の児玉源太郎(長州)や海軍の山本権兵衛(薩 摩)と共にその世代がシビリアンコントロール(文民統制)をシステム化させ た可能性である。戦争の惨禍を国民に強いた当事者ゆえの判断だったろうか。 /だが陸軍を憲法の統制下に置こうと参謀本部改革に着手した児玉は、桂より 先に急死した。首相に就き軍部大臣現役武官制を廃した山本は、海軍の一大醜 聞シーメンス事件で引責辞任し元老への道を閉ざされた。結果、その現役武官 制は復活し、軍部は内閣の生殺与奪の権を握る強力な武器を手に入れたのだっ た。」

 そして、曽我豪編集委員は、4年前に安倍首相が発表した戦後70年談話を引 く。 戦前の日本を「進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。」 と断じ、その誤りの時代を「日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰 まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治のシステムは、 その歯止めたりえなかった。」と、認識していると…。