自由が丘駅前の不二屋書店2019/02/13 07:13

 <秋風や函入の本二冊買ふ>という俳句が、その本屋さんを出る時に、口を ついて出た。 すっかり忘れていたのだが、昭和61(1986)年秋に、「ゆとり 創造月間」というのがあったことが、その本について書いた「等々力短信」の 題が「「ゆとり創造月間」に」となっていることでわかる。 本屋さんは、自由 が丘駅前の不二屋書店で、岩波書店の本も置いてあり、品揃えが充実洗練され ていて信頼でき、等々力にいる時から、よく利用していた。 函入の二冊の本 は、阿川弘之さんの『井上成美』(新潮社)と、江國滋さんの『神の御意―滋酔 郎句集』(永田書房)だった。

 2月9日、近くの宮本三郎記念美術館で、地域の方の話を聴く「人ひろば」 の会があって、不二屋書店三代目社長・門坂直美さんの「自由が丘で本屋を続 ける」を聴いてきた。 不二屋書店は、文学少年で作家になるのが夢だった、 門坂直美さんの祖父、門坂吟一郎さんが1922(大正11)年に奥沢で創業、小 屋のような小さな店の戸板販売だったそうだが、新本古本を商い、目利きによ って、よい客がつく。 翌年磯部冨士江さんと結婚、長女郁さん(二代目社長、 直美さんの母)が誕生する。 東横線(昭和2年開通)の九品仏駅が、1929(昭 和4)年現在の大井町線の開通で自由ヶ丘駅となった駅前に、お客さんの東急 幹部の勧めで移転する。 何もなく出店は三番目だったが、1932(昭和7)年 地名も碑衾(ひぶすま)から自由ヶ丘になった。 夢だった総檜づくりの風呂 のある木造3階建て店舗兼住まいを建てるが、1945(昭和20)年空襲で焼失、 本屋はよく燃えると言っていた。 山梨県に疎開、名家の親類に大事にされ快 適に暮していたが、終戦。 祖母にせかされた吟一郎さんが焼野原の自由ヶ丘 に戻ると、旧店舗の場所は再開発でロータリーとなることになっていて、地主 から現在の場所を1ヶ月1円で借りる。 この一等地を確保できたことが大き かった。 1947(昭和22)年、郁さんが結婚と同時に教員(奈良女子高等師 範出身)を退職し夫婦で不二屋書店を手伝い始める。 1950(昭和25)年、 門坂郁さんの次女として直美さん誕生、3歳まで鎌倉で祖父母に育てられた。  直美さんは、母郁さんを、地方から集団就職で出て来た住み込みの店員が病気 になると、リンゴをすりおろしたりしたりしたが、店員優先、娘の私にはしな かったといい、真面目に働いたが、商売には向いていなかった、という。 父 は理科大を出て東工大にいたような人で、直美さんが小学校高学年の時、別居、 やりたかった出版の仕事に大阪でつき、保育社で入江泰吉全集など編集した。

 直美さんが生まれてからの、1955(昭和30)年前後の自由ヶ丘(自由が丘 表記となるのは1965(昭和40)年)は、牛や馬が肥担桶(こえたご)を積ん で通っていた記憶があるが、店は早朝に荷物が届き、終電まで店を開いていて、 大変な忙しさだった。 不二屋書店と自由書房の二店が住み分けていた自由ヶ 丘に、1962(昭和37)年、東急プラザが開店、三省堂書店が出店して、青山 ブックストア、芳林堂も出て、五店の混戦状態となり、店舗面積は不二屋書店 が一番狭かった。 三省堂書店では当初、不二屋書店は一年持たないだろう、 と言っていたらしい。 しかし現在は、不二屋書店と、ブックファーストだけ になった。 なぜ不二屋書店が生き残れたのかは、また明日。

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