ハリー・パッカード、メアリー・グリッグス・バーク2019/02/22 07:13

 ―メトロポリタン美術館、田島充、ミネアポリス美術館―

 六本木、東洋美術専門のロンドン・ギャラリー、田島充が備前の壺に赤い実 をつけた枝を活けている、「花長」で花を買って…。 白洲正子に「天性の目利 き」といわれた田島充は、福井の骨董好きの医者の子で、少年時代、広田不孤 斎(壺中居創業者)の『歩いた道』という本に出合った。 1957(昭和32) 年21歳で上京、古美術商を始める。 そして五人目のコレクター、ハリー・ パッカードと出会う。 日本美術の錬金術師といわれるハリー・パッカードは、 元進駐軍の海兵隊員で、日本語がペラペラの目利き、200万~1000万円のもの を買う。 浮世絵のコレクションから入り、初めは贋物をつかまされたりした が、次第に腕を上げ、安く買ったものを高く転売して、歌川広重《花菖蒲に白 鷺》、《甲陽猿橋之図》、《名所江戸百景 王子装束ゑの木 大晦日の狐火》などの コレクションを充実する。

 1963(昭和38)年秋、田島充はハリー・パッカードに誘われ、かなりの量 の美術品を持ち込み、サンフランシスコから、ロスでは4~5人のコレクター に売るなど、ワゴン車で数千キロのドライブをして売り歩く。 シカゴではホ テルのオーナーだったエイブリー・ブランデージが待っていた。 ブランデー ジはチョイスがよく、作者不明《阿弥陀来迎図》(アジアンアート美術館)など、 30何点かを買った。 その後、田島充はパッカードが何分の一しか支払ってく れない件で決別する。

 ハリー・パッカードは、入手した美術品を高価で転売するやり方で、仏像、 工芸品から、絵画までのコレクションを充実させていった。 1975(昭和50) 年、メトロポリタン美術館に400点の購入を持ち掛ける。 戦後のどさくさに 京都の旧家から手に入れた狩野山雪《老梅図襖》もその一つ。 150万円で買 ったが、裏にも絵があり、その絵だけをすぐ150万円で売っていた。 400点 の内には、作者不明《集一切福徳三昧経》、長沢芦雪《山水唐人物図屏風》、円 山応挙《白鷺図》などもあり、言い値は1千万ドルだった。 結局、パッカー ド・コレクションの名を残すことで、500万ドルで取引は成立、パッカードは 金と名誉を手中にし、メトロポリタン美術館は全米有数のコレクションを手に 入れた。 

山下裕二さんは、パッカードには、柴田是真《烏鷺図屏風》、俵屋宗達工房《月 に秋草図屏風》など、いいものを買おうという執念があり、目が利いて莫大な 利益を上げたが、基金をつくり、日本の若い美術研究者の奨学金を出し、自分 もその奨学金を受けて、アメリカにある日本美術を見て歩いたと言う。 日本人が見落としていたものが、アメリカにはある。 メトロポリタン美術 館は、日本美術の守り神とも言える。 酒井抱一《桜楓図屏風》、作者不明《叺々 鳥図屏風》。

六人目のコレクターは、メアリー・グリッグス・バーク、ミネソタの材木王 の一人娘、上品で、目利き、母親の持っていた着物に魅せられ、日本美術に興 味を持ち、何度も日本を訪問した。 伊藤若冲《月下白梅図》など、自然や動 物の絵を好んだ。 2012(平成24)年に亡くなり、1000点のコレクションを メトロポリタン美術館400点とミネアポリス美術館600点に分けて寄贈。 ミ ネアポリス美術館は、開館以来入場無料、円山応挙《芦雁・柳月図屏風》、円山 応挙《狗子図》、尾形乾山《白梅立葵図屏風》、森春渓《肘下選蠕》、バークの愛 した石山幽汀(応挙の師)《群鶴図屏風》、作者不明《大麦図屏風》地味なテー マを豪華に描いた素朴な風景を愛した、俵屋宗達工房《波に舟図屏風》。 バークのコレクションは1985(昭和60)年に里帰りし、東京国立博物館で「日本美術名品展 ニューヨーク・バークコレクション」が開かれた。