心飢(こころうう)る〔昔、書いた福沢37〕2019/03/18 07:04

  心飢(こころうう)る<等々力短信 第426号 1987.(昭和62).5.15.>

 四百円の買物をして、五百円札で払う。 店員が千円札と勘違いして、六百 円のおつりをくれた。 若い女店員なら、かわいそうな気がして、「五百円だっ たよ」と言うだろうが、感じの悪いオッサンか何かだったら、どうするか、ち ょっと自信がない。

 福沢諭吉の父百助は、九州大分、中津藩の下級武士で、大坂蔵屋敷に在勤し、 大坂の商人を相手に、藩米を売ったり、借金や返済期限延期の交渉をしたりと いう、藩財政の雑務に当った人であった。 他方、学問もあり、学者との交際 もあった。 長い間欲しかった『上諭条例』という書物を手に入れた喜びから、 たまたま生まれた男子を「諭吉」と命名したという。 百助、この大坂の藩邸 で四十五歳で亡くなった時、福沢諭吉は数えの三歳にすぎず、その顔も覚えて いないが、母親が何かにつけて父のことを話すので、「父は死んでも生きてるよ うなものです」と、『福翁自伝』の初めの所で、語っている。

 百助は、古銭を集めて、楽しみにしていた。 その頃の大坂では、一文の銅 銭(青銭)九十六文を銭緡に貫いたのを「九六の百文」と名づけて、百文で通 用していた。 普通は、およその銭緡の長さを一見するだけで、一、二枚の過 不足は問題にしなかった。 ある日、百助は二、三条の銭緡の中から、幾文か ずつの古銭を選び出し、残りは元のように銭緡にさして、そのまま外出した。  留守中、家人が不足を知らずに、魚屋への支払いに、それを使ってしまった。  百助は、おおいに驚いて、あいにく出入りの魚屋でなかったため、人を雇って まで、その魚屋をさがし出し、家に呼んで、事の次第を話し、不足の銭を払っ た上、「煩労を謝する為め」に若干の銭を与えて、不注意の罪を魚屋に詫びたと いう。

 福沢諭吉は、このエピソードを、明治11年2月「福沢氏古銭配分の記」に 手記して、子供6人(当時)に、古銭とともに与えた。 家に伝わる古銭の中 に、この時父が選び出した銭があるのは、明らかだ。 福沢の家は、貧しくて 余財がなかった。 ある物は売りつくして自分の学費にしてしまったから、家 に伝わる物で、お前たちに分けてやるものが何もない。 この古銭だけは、千 金を投じても買うことのできない宝物で、先人の余光の存するものだから、こ れを修身処世の記念品とせよ。 この宝物の精神を忘れるな。

 「世々子孫、福沢の血統、孜々(しし)勉強して自立自活、能く家を治む可 きは言ふまでもなきことながら、万一不幸にして財に貧なる憂(うれい)ある も、文明独立の大義を忘れ、節を屈して心飢(こころうう)るの貧に沈む勿(な か)れ」