ヤマザキマリと『男子観察録』<等々力短信 第1117号 2019.3.25.>2019/03/25 07:12

 テレビのクイズ番組を見ていると、自慢じゃないが、かなりよく答えられる。  広く浅く雑学をかじっているからだろう。 弱い分野は、漫画とポップス。 漫 画は、サトウサンペイの『フジ三太郎』までで、以後は全く知らない。 雑誌 や劇画などは、手に取ったこともない。 だからヤマザキマリさんが、どんな 人なのか、ぜんぜん知らなかった。 『テルマエ・ロマエ』を描き、映画にも なったぐらいは知っていたが…。

ヤマザキマリさん(51)が、阿川佐和子「サワコの朝」(1月19日)で、機 関銃のようにしゃべっていた。 母がヴィオラ奏者で、北海道で育った、父は 指揮者だったが幼い頃に死んだ。 ひとりテレビを見て、兼高かおるになりた かった。 絵を描くのは好きだった。 中学2年14歳の時、母の勧めで、ヨ ーロッパ(リヨンとケルン)に一人旅に出る。 ブリュッセルで、パリのルー ブル美術館へ行こうとしていて、家出少女と思われ、イタリア人のマルコ爺さ んに声をかけられた。 帰国後、母がマルコ(陶芸家だった)にお礼の手紙を 書き、その縁で17歳の時、フィレンツェの美術学校へ入る。 稼ぎのない詩 人を恋して11年貧乏暮しをし、その子を産んだ時、別れることを決意して帰 国、シングルマザーとしてイタリア語講師やテレビ・ラジオのレポーターを務 める。 その後、14歳年下のマルコ老人の孫とエジプトで結婚、彼は古代ギリ シャやローマのオタクで同好、知識が深まった。 風呂の文化が日本と古代ロ ーマにしかないなど、古代ギリシャ・ローマ事情を、もっと日本で広めたい、 と熱っぽく語っていた。

そのヤマザキマリさんにエッセイ『男子観察録』(幻冬舎文庫)があるという ので、読んでみた。 14歳の時、自分の遊牧民的性質を見抜き、それをリスペ クトしてくれた、母の大胆な決断には感謝している。 結果的に現在の自分に つながった、その背景には、母の世界観を日本に留めない育て方をした、祖父 戸田得志郎の存在があった。 祖父は明治の半ばに生れ、大学を出て横浜正金 銀行に入り、新天地アメリカに渡って、ロスアンジェルスとサンフランシスコ、 シアトルの支店を開設した。 戦時中、シンガポールへの異動を発令されるが、 胃潰瘍になり、代りに行った同僚の船がアメリカ軍に撃沈される。 「同僚に は気の毒だけど、僕はね、ラッキーなんだよ」と繰り返し、「人生はね、自分が ラッキーだと思う程、楽しいもんなんだよ」と、マリさんに教えた。 海外経 験の豊富な祖父に羨ましがられたことが、17歳のイタリア美術留学の背中を押 す。その後の大変な生活も、海外に来てまでやりたかった絵画を勉強できるそ の「ラッキー」ささえ認識すれば、祖父の言葉通り、何でも最終的には幸せに 感じられるものであり、今もマリさんは、その気持を忘れずに、日々を過ごし ている、という。

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