映画『あの日のオルガン』2019/03/06 07:29

 藤原QOL研究所の藤原一枝先生から、「この春の推薦映画」というメール をいただいた。 『あの日のオルガン』、太平洋戦争末期、日本で初めて保育園 を疎開させることに挑んだ保母たちの実話を描いた公開中の映画で、託された いのちを守りぬこうとするヒロインたちの奮闘を描いた真実の物語だという。

 私は観ていなかったが、主演の戸田恵梨香が「サワコの朝」に出、朝日新聞 にも紹介記事があったので、それが戸越保育所の話だということは知っていた。  たびたび書いているが、私は品川区の戸越の隣、中延で育ち、4歳の時、昭和 20(1945)年5月25日未明の空襲で、父に負ぶわれて、戸越方面でなく、反 対側の馬込方面に逃げて、立会川に下り一夜を明かして助かっていた。 戸越 方面に逃げたら、命を落として、今これを書いていなかったかもしれない。 戸 越保育所から疎開した53名の子供たちは、同じような地域に住んでいた、少 し上のほぼ同年代ということになる。

 戸越保育所で検索したら、鳥居明夫さんという方のブログ「シネマとうほく 鳥居明夫の旅と映画」が出てきた。

https://cinematrip.exblog.jp/238633868/

 映画では、どこまで描かれているかわからないけれど、戸越保育所は、社会 運動に目覚めた東大経済学部の学生だった満鉄総裁の息子の大村英之助さんが、 都バスの車掌だった鈴子さんと結婚して、昭和14(1939)年に開園した自由 な雰囲気の保育所だったが、戦況の悪化で存続が危ぶまれるようになって、恩 賜財団母子愛育会に経営を譲渡したそうだ。 そして昭和19(1944)年、財 団と戸越保育所の保母たちが疎開保育を決意することになる。

 私は結婚当初、広尾に住んでいたので、息子は恩賜財団母子愛育会の愛育病 院で生まれ、愛育幼稚園に通った。 そんな縁もあるのであった。

 「サワコの朝」で顔と名前を知った戸田恵梨香、神戸の育ちで阪神淡路大震 災を経験し、中学卒業で東京に出て来たという。 挫折を経験しても、両親に 恵梨香ひとりぐらい食べさせられるから、いつでも神戸に帰って来いと言われ て、奮い立ったという強さを持つ。 『あの日のオルガン』の撮影で、子役の 子供たちがふざけて騒ぐのを、関西弁で怒鳴ったら、しゅんとなって、スムー ズに撮影が進んだという話をしていた。

朝日ネットの「電子フォーラム」サービス終了2019/03/07 07:11

 3月3日の朝、「等々力短信/サロン」に投稿しようと、朝日ネットの電子フ ォーラムを開いて、驚いた。 ヒェーーッ! 5月31日(金)をもって、「電 子フォーラム」サービスを終了するとあるではないか。 利用者減少のためと ある。 これはショックだった。 その時、書き込もうとしたのは「「世界ふれ あい街歩き」ちょっとお散歩」で、等々力短信/サロン/ #8117 である。 8117 を、ほとんど一人で書いてきた。 「等々力短信/サロン」は、1997(平成9) 年5月19日の開設である。 その前は終了フォーラムのアーカイブス「等々 力短信・ネット版」フォーラムで、1991(平成3)年2月5日開設から、「等々 力短信/サロン」移行までの分を読むことができる。 個人通信「等々力短信」 は、1991(平成3)年1月15日の第554号から読めるのだ。 「電子フォー ラム」の読み出しは、いつまでできるのだろうか? サービスの終了とともに、 読めなくなってしまうのだろうか?

 「等々力短信/サロン」に書き込んでいる「小人閑居日記」と個人通信「等々 力短信」は、2005(平成17)年5月25日から、朝日ネットのブログ・アサブ ロの「轟亭の小人閑居日記」にも同じものを出すようにしたので、朝日ネット の会員以外にも広く読んでいただけるようになっている。 そこで、「電子フォ ーラム」サービス終了で問題になるのは、2005(平成17)年5月25日以前の 書き込みである。

 個人通信「等々力短信」の古いものについては、その一つの柱である福沢諭 吉関連のものを、〔昔、書いた福沢〕シリーズとして、桃太郎悪者論(広尾短信 第94号)〔昔、書いた福沢1〕<小人閑居日記 2011. 10. 10.>から、『福翁自 伝』削除、その後(等々力短信第392号)〔昔、書いた福沢27〕<小人閑居日 記 2017.11.18.>まで、ブログ「轟亭の小人閑居日記」に再録してきた。 と りあえず、〔昔、書いた福沢〕シリーズの続きを発信していきながら、朝日ネッ トの「電子フォーラム」サービスがどうなるかを見ていたいと思う。

『漱石全集』第十七巻『索引』〔昔、書いた福沢28〕2019/03/08 07:17

        広尾短信 44 1976(昭和51).5.15.

 岩波の十六巻本の漱石全集に第十七巻の「索引」が出来た。 この全集は前 回の昭和40年からの発行時に、一巻1,200円でそろえた。 サラリーマンに なりたてのことで、自分の金で本らしい本を買った嬉しさは忘れられない。 第 十七巻は2,800円だから本の値段は二倍強なのに、初任給は当時21,000円だ ったのが、現在は五倍位になっている。

 「索引」で「広尾」を引いたら明治44年5月20日の林原耕三宛の書簡に「鈴 木の渋谷の宿所は下渋谷七四広尾橋下車祥雲寺墓地の横といふ所だよ」と鈴木 三重吉らしい人の消息を伝える文句が出てきた。 祥雲寺墓地の横とは今私の 食う寝る所住む所である。

 「慶應」は講演を断わる手紙を書いたという日記と、英語教師になれという 話を断わることにふれた小宮豊隆宛の手紙に登場するだけで、「福沢諭吉」にい たっては漱石全集十六巻に一度も現われない。

                             轟亭

ジョークをひろめようとした福沢諭吉の失敗〔昔、書いた福沢29〕2019/03/09 07:11

         広尾短信 58 1976(昭和51).10.5.

 ジョークをひとつ、題は「記憶をよくする法」。 わしもだんだん年をとって 記憶の悪くなったのには困るよ/先生、それはすぐに直す方法があります/ど んな方法かね/私に五億円貸してごらんなさい。

 「欧米を漫遊して帰国すると日本では一夕の宴に小噺を語る人が少ないこと に気がつく」とは加藤周一さんの感想だが、外人に「今、日本で流行っている ジョークを教えて下さい」といわれて喜劇一筋の飯沢匡さんでさえ狼狽すると いうのだから、欧米での社交術の重要部分をなすジョークが、日本でどれだけ 無視されてきたかがわかる。

 飯沢さんの発見によると明治二十年代に早くもこの風潮に気付いた福沢諭吉 は、長男一太郎訳で『開口笑話』という英和対訳のジョーク集を出して啓蒙に 乗り出した。 それが失敗したのは今日ごらんの通り。 冒頭のは全集二十巻 所収の福沢諭吉訳のジョークをほんの少し現代風にアレンジしてみた。

 (1976(昭和51)年は、2月にロッキード事件が発覚、7月27日事件当時 の首相だった田中角栄が逮捕された。)

北里柴三郎と福沢諭吉の遭遇〔昔、書いた福沢30〕2019/03/10 07:49

        等々力短信 107 1978(昭和53).2.25.

 少し前、朝日テレビで北里柴三郎の伝記『怒涛』をやった。 福沢諭吉役は 小沢栄太郎で、病気で倒れた後の場面など、実によく似ていた。 その昔、三 田の床屋に掛けてあった福沢の肖像を見て、「福沢の野郎は小沢栄に似ている な」といったのを隣の教授に聞かれる事件を起こした塾生がいた。

 人の出会いは貴重なものである。 ドイツに留学し、コッホ研究室で最新の 細菌学を学んで名声を得て帰国した北里は、日本にその力を発揮する場所がな く、不遇をかこっていた。 福沢は親友長与専斎の紹介で、北里の人物を知り、 その不遇に同情し、私費で研究所を建て北里に提供した。

北里研究所五十周年の記念講演で、故小泉信三氏は「この二人の人物が遭遇 することがなかったら、北里研究所は或いはなかったかも知れない。慶應義塾 医学部というものも、なかったでありましょう」といっている。