吉右衛門と高浜虚子「ホトトギス」2019/04/09 07:27

 3月の末に書いていた関容子さんの『中村勘三郎楽屋ばなし』だが、「兄、吉
右衛門のこと」の章に、俳句のことが出てきたので、書いておきたい。 大分
前に、新橋演舞場で「秀山祭大歌舞伎」を観て、「秀山」が初代吉右衛門の俳号
で、初代が「ホトトギス」で師事した高浜虚子は、吉右衛門で名が通っている
のだから吉右衛門のままがいいでしょうと言ったとかで、『吉右衛門句集』など
句集三冊を刊行していると書き、その句を何句か紹介してはいた。 
「秀山祭」と初代吉右衛門の俳句<小人閑居日記 2010. 9.19.>
http://kbaba.asablo.jp/blog/2010/09/19/

 『中村勘三郎楽屋ばなし』で、歌舞伎俳優と俳句の関係が深いことがわかる。
十七代目中村勘三郎の父、中村歌六は本名を波野時蔵、俳号を獅童といったと
いう。 大河ドラマ『いだてん』で金栗四三の兄をやっている中村獅童に通じ
ているのだろう。 初代吉右衛門は、句会で披講のときに自分の句が読み上げ
られると、「秀山」を使わずに「吉右衛門」で通していたとある。 吉右衛門の
俳句が、「ホトトギス」で初めて高浜虚子に採用されたのは、昭和7(1932)年
で、
  家土産(いえづと)にかぼちやもらひし夜汽車かな
の一句だった。

 昭和8年1月28日の「日記」には、高浜虚子と吉右衛門、その門弟二、三
人とで伊豆へ吟行している。 「大磯より乗る。……宿(露木旅館)へ着く。
小生は早く御膳、御膳と、女中に頼む。部屋は三階、海の真中に見える島は何
島ですかと聞くと、先生があれは初しまですという。七三郎が椿の産地です。
先生が初しまというが宿の者は初じまといいますと、話している。暫く皆は
句帳を手にして無言である。庭の前に広いベランダがある。海が大きく見ゆる。
この家では一番眺めの良い座敷に違いないと思った。床の間には大伍(池田(池
田弥三郎さんの叔父))さんと坪内(逍遥)先生の、仁左衛門(先々代)の片桐
の画賛半折が掛けてある。」

 昭和12年になると、俳人としての地位もかなり固まったらしくて、虚子の
出身地松山での六月句会に選者をつとめている。
 「……ホトトギス派の俳人が披講をしたり、我ら一ぱし俳人になりすまして
いたのもおかし。その時の心持は役者で来たより、俳人が句作旅行に来たとい
う感があって、何ともいえぬおかしさ。……披講の時の先生の真似をして沢山
取って上げた。皆々大喜びで引き上げた。」

 昭和18年には、芭蕉翁百五十年を記念して虚子の『芭蕉嵯峨日記』を劇化
上演した芝居で、俳聖芭蕉を演じた。 三幕目、蚊帳の中に蒲団が三つ敷いて
あり、芭蕉を真中に、去来(男女蔵)と凡兆(三津五郎)が寝る。 真中の蒲
団だけが木綿で、両側はスフであるらしく、男女蔵と三津五郎が冷たい、冷た
いと言う。 そこで、一句。
  凡兆と去来のふとん冷くて

 (虚子選となり)「ホトトギス」に採用が決ると、雑誌に出る前に誰かが本人
に知らせることがあったらしい。 あるとき吉右衛門の句が四句出ることにな
ったというんで、こりゃあもう前代未聞のことだって、お祭り騒ぎになった。 
当時大磯にいた、吉右衛門のところに友達や弟子たちが集まって、大宴会が始
まろうとしていたところに、十七代目中村勘三郎宛の電報が届いた。 「キミ
ノクガホトトギスニ五クデタ」。 兄の吉右衛門はたちまち顔色を変えて、
「な、なんだって、お前は日頃ちっとも勉強なんかしないで、いわばまぐれじ
ゃないか。冗談じゃねえ。棚からボタ餅どころか、あくびした口へボタ餅じゃ
ねえか」って、大変なお冠り。 もう御馳走どころじゃなくなって、宴会はお
流れになった、という。 その時の十七代目の五句、ちゃんとソラで言ってい
る。
  つくばひに水なき夏の旅籠かな
  ホタル籠吊ってくれたる宿屋かな
  中庭に夏の月あり佐賀の宿
  草いきれ立看板は吉右衛門
  打掛をかけて昼寝の源之助