負われて見たのは〔昔、書いた福沢48〕2019/04/21 08:24

  負われて見たのは <等々力短信 第556号 1991(平成3).2.5.>

 芳賀徹さんが、「江戸像の系譜」のセミナーで、今泉みねの『名ごりの夢』 (平凡社東洋文庫9)から「おはま御殿」と「ちーばかま」の二章を読んでく れた。 今泉みねは、将軍家の御奥医師(外科)で、ただ一軒の公認の蘭方医、 桂川甫周国興の「おひい様」として、安政2(1855)年、江戸築地中通りに生ま れた。 八十歳を過ぎた昭和十年から亡くなる十二(1937)年まで、ご子息の雑 誌のために、江戸三百年の文化の華が落日の時を迎えて、まさに最後の輝きを 見せたその時期の思い出を、口述したのだった。 芳賀さんは、言葉づかいと いい、そこに語られている世界といい、何ともすばらしいと絶賛し、芳賀さん 一流の誇張で、「『福翁自伝』を超えている」とまで言った。

 『名ごりの夢』に、若き日の福沢諭吉が登場する。 みね三歳、福沢二十三 歳の安政五(1858)年は、福沢が大阪から江戸へ出て、築地鉄砲州中津藩中屋敷 内(今の聖路加病院のあたり)に、蘭学塾を開いた慶応義塾創立の年で、桂川 甫周の方はといえば、例のヅーフ・ハルマを『和蘭字彙』と題して出版した年 だった。 福沢の長屋から桂川の屋敷は目と鼻の距離にあったし、「その家は 日本国中蘭学医の総本山とでも名をつけてよろしい名家であるから、江戸はさ ておき日本国中蘭学社会の人で桂川という名前を知らない者はない」(『福翁 自伝』)というわけで、福沢はたびたび桂川邸に出入りするようになる。 そ して、みねを生んで間もなく亡くなった母親が、木村摂津守喜毅の姉であった という、桂川と木村の親戚関係が、福沢を紹介する桂川の木村への手紙となり、 福沢を咸臨丸に乗せることになった。 咸臨丸渡米の一事が、福沢のその後に、 どれだけ大きなものをもたらしたかを考える時、この縁の貴重さ、有難さは、 計り知れないものがある。  

 みねは、大男だった福沢の大きな背中におぶわれて、長男一太郎が生まれた ばかりの、福沢の家を見ている。 六畳と三畳の台所という二間きりで、玄関 がなかった。 台所から入って、台所から出たが、そこで奥さんが子供をおぶ って洗濯をしていた。 丸顔な色の白い人だったという。 みねはまた、桂川 のサロンに集まってくる洋学者の中で、福沢のみなりが一番質素で、木綿の着 物に羽織だったこと、そのふところは始終本で一ぱいにふくらんでいたこと、 桂川から洋書を借りていくと、それを写すのに他の人が一と月も二た月もかか るのに、福沢は四、五日か六、七日で写して返すこと、福沢は、どうも遊び仲 間とはちがう印象だったと、語っている。