訂正二件〔昔、書いた福沢50〕2019/04/23 07:15

   訂正二件 <等々力短信 第563号 1991(平成3).4.15.>

 ちょうど一年ほど前、「上野毛散歩」という一文を草して、五島美術館の庭 で、こぶしの巨木の満開に遭遇して、感激した話を書いた。 白崎秀雄さんの 『耳庵 松永安左ェ門』を三度にわたって紹介したため、珍しく五島美術館を 覗いてみる気になった余慶だったから、「来年はぜひ」といえば、「鬼」が笑 うかな、と結んだのだった。

 あれは春の早かった去年の、3月18日のことだった。 頃を見計らって3 月21日に、大こぶしに会いに行った。 庭園拝観料100円を払い、期待に 胸を弾ませて裏庭に降りる。 だが、こぶしの咲いているはずのあたりが、や けに暗い。 近寄ると、まったく咲いていないのだ。 もう咲いてしまったの か、まだこれからなのか、あるいは枯れてしまったのか。 入口にとってかえ して、受付の女性に尋ねると「当館のこぶしは三年に一度咲きます。 去年咲 きましたから、つぎは再来年です」という答。 瞬間、耳の大きな「鬼」の笑 い声を、聞いたような気がした。

 『五の日の手紙2』を読んで下さった土橋(つちはし)俊一先生(富田正文 先生とともに『福沢諭吉全集』を編纂された)から、長文のお手紙で、ご感想 を頂戴した。 おおかたは、著者を激励する過褒のお言葉であったが、一箇所 訂正して貰いたいという、鋭いご指摘もあった。 それは私が『耳庵 松永安 左ェ門』を鵜呑みにして、松永さんは昭和39年4月29日、勲一等の宮中で の親授式を欠席して、近くのパレスホテルで開かれた福沢諭吉全集の完成記念 会に出席したと、書いたことについてだった。

 土橋先生によれば、福沢全集の記念会は4月29日ではなくて、4月9日に あった。 お手紙には、当日先生が記念に贈られた写真アルバムの「先師をし て見せしめば 福沢諭吉全集完成祝賀会記念写真 昭和三十九年四月九日 小 泉信三記」という小泉先生の筆跡のコピーまで、証拠として同封されていた。 土橋先生は『耳庵 松永安左ェ門』刊行直後、新潮社にも訂正方を申し入れら れたそうで、「このことは後世の人々に妙に勘ぐられては松永さんも不本意で ありましょう 事実は著者白崎さんの單純なミスで「孫引き」のこわさを教え てくれる好箇の事例とも申せましょう」とのご指摘に、私が恐れ入ったのは、 もちろんだ。 調べてみると、親授式が5月6日だったり、いろいろ面白い事 実も分かってきたのだが、結論は間違いだった。 ここに『五の日の手紙2』 251頁の記述の誤りを、お詫びして、訂正する次第である。

    …脚注 …

 等々力短信 第563号で訂正した原文は、次の通りである。  「五島美術館の裏庭は、多摩川に下る傾斜地に位置しており、今度初めてぐる りと一周してみて、けっこう広いことがわかった。 本館をまっすぐ降りると 石仏や道祖神、燈篭や石塔の類が、たくさん蒐められている一角がある。 崖 下の水辺を通り、小さな門をくぐって、再び登りにかかった。 見上げて、ハ ッと息を呑む。 空いっぱいに枝を広げ、いちめんに白い花をつけた、大木が おおいかぶさっている。 大「こぶし」であった。 天然記念物にも指定され ている。 開きかけの、一番いい時期に巡り会った。 三月十八日、日曜日の ことである。 耳庵の徳、ここに及ぶという次第。 「来年はぜひ」といえば 「鬼」が笑うかな。」 (等々力短信 第527号「上野毛散歩」1990.4.5.)

「白崎さんの本(白崎秀雄著『耳庵 松永安左ェ門』新潮社刊)に、こんな話 がある。 松永さんは九十歳の昭和三十九年四月二十九日、それまで固辞して きた勳一等瑞宝章を受けた。 勳一等は宮中で天皇陛下から親授される。 当 日、松永さんだけが欠席した。 松永さんはその日、皇居と目と鼻のパレスホ テルで行われた、福沢諭吉全集の完成記念会に出席し、高村象平塾長、小泉信 三、富田正文氏らの編纂の労をねぎらっていたという。 戦後自ら予想してい た混乱が回避できたのは、天皇のおかげと認識して、志木に近い柳瀬山荘五千 坪と高価な所蔵美術品多数を国立博物館に寄贈した松永さんだから、ただの皇 室軽視ではない。 福沢への思いがそれよりも深かったということなのだろう か。」 (等々力短信 第524号「鬼のおかげ」1990.3.5.『五の日の手紙2』 (私家版)251頁)