『わが文芸談』〔昔、書いた福沢56〕 ― 2019/05/22 07:22
『わが文芸談』<等々力短信 第621号 1992(平成4).12.5.>
11月15日、TBSテレビで『父の鎮魂歌・海軍主計大尉小泉信吉』をご 覧になった方も多いだろう。 小泉信三さんの本を愛読した私には、この「ド キュメンタリー・ドラマ」という形式、説明に傾き過ぎて、原著の感動をもう 一つストレートに伝えられなかったように思う。 智に働いて角が立ち、情を 描き損なった、というところか。
小泉信三さんに『わが文芸談』(新潮社)(文藝春秋の全集では20巻)と いう本がある。 久保田万太郎の著作権寄付による資金で、慶應義塾が行なっ ている「詩学」という特別講義の第4回として、小泉さんが昭和40年、9回 にわたって講義した速記録である。 漱石と鴎外の、人と作品の紹介、鑑賞と して、これほど優れたものはないと思う。 漱石は少し読んでいた私だが、こ の本によって鴎外への目を開かせられた。
『わが文芸談』にも、当然鴎外と乃木の話が出てくる。 乃木は、鴎外と大 変親しかったという。 鴎外のドイツ留学の時に、乃木もドイツにいたし、以 後官界の履歴の上でも、鴎外は乃木と大変親しい関係にあった。 また乃木の 生活態度が、鴎外のそれと共感するものがあった。 乃木は、極めて質素な武 人の生活に終始した人であり、鴎外も自分の身辺に、なんの贅沢らしいことも しない。 本を買うことと、葉巻には金を使ったけれど、それ以外に何も贅沢 をしていないと、小泉信三さんは語っている。 その書きっぷり(話しぶり) には、小泉さん自身の深い共感が込められている。
日露戦争が終った頃から、自然主義の文学運動が、非常な勢力になった。 乃木は当時、学習院院長をしていたが、この新しい文学の傾向に対して、いろ いろ心配を持っていて、鴎外に相談したこともある。 鴎外も、自然主義の横 行に対して不満を抱いていて、それに対抗して、「三田文学」と「白樺」、そ れに与謝野鉄幹の「昴」を併せて、一つ文壇に鴎外自身の同意する新しい文学 の潮流を起こしたいと考えていたらしい。
これより先、慶應義塾は文科の刷新と振興のために、鴎外に出馬を要請す る。 鴎外は永井荷風を推薦し、その永井教授を始め、小山内薫、小宮豊隆ら が講師になり、「三田文学」が創刊されるなど、明治43(1910)年慶應 義塾の文科は一挙に活気づく。 そして、水上滝太郎、佐藤春夫、久保田万太 郎を始めとする、多くのすぐれた文学者を輩出することになる。 小泉さんは この日本文学史に残る大事件の、身近な観察者であった。 そんな『わが文芸 談』の、一読、再読をおすすめしたい。
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