『西洋事情』を読む〔昔、書いた福沢57〕2019/05/23 07:26

   『西洋事情』を読む<等々力短信 第624号 1993(平成5).1.15.>

 昨年の11月から12月にかけて、二十数年ぶりに三田の山に帰り、演説館 に銀杏の落葉がはらはらと降りかかるのが見える教室で、至福の時間を過ごし た。 福沢諭吉協会主催の「芳賀徹氏と『西洋事情』を読む会」に参加させて もらったからだ。 土曜日の午後5回にわたる講義だったが、終った後、40 人ほどの参加者の多くは異口同音に「こんなのを一年くらい続けたい」という 感想をもらした。 「自発的」な学びと、学生時代のそれとの収穫の差を、い やでも比較することになった。 以前、社会人が一時的に学校へ帰る制度がア メリカなみに、もっと普及してもいいと、書いたことがあるが、あれも芳賀徹 さんの「江戸像の系譜」という岩波市民セミナーに通った時だった。

 福沢諭吉の『西洋事情』が当時の大ベストセラーで、近代日本のシナリオに なったことは、よく知られているけれど、今日、『西洋事情』を読んだことの ある人は、ほとんどいないのではないか。 かくいう私も、しばしば福沢諭吉 を引合に出したり、知ったかぶりをしていながら、恥ずかしいことに『西洋事 情』を読んでいなかった。 『西洋事情』は、初編の3冊が慶応2年(186 6)刊、外編の3冊が慶応4年(1868、9月に明治に改元した年)刊、さ らに二編4冊が明治3年刊の、合計10冊から成っている。 初編と外編の間 に、福沢二度目のアメリカ行きが、はさまる。 初編を出してすぐ、軍艦受取 の随員でアメリカへ行った無名の福沢は、帰国したら、『西洋事情』によって 日本中の字を読める人なら、知らない人のいない有名人になっていたのだ。

 今回、第一の収穫は、福沢の英語の実力を知ったことだ。 外編は「チェン バーズの『政治経済学』」の翻訳が、主体になっている。 「チェンバーズ」 は、著者ではなく、この教育叢書を出していた兄弟の出版業者で、近年ハーバ ード大学のクレイグ教授によって、著者はジョン・ヒル・バートンというスコ ットランド人であることが判明した。 「読む会」で、芳賀さんは“POLITICAL ECONOMY”の原典と福沢の翻訳を、突き合わせながら読んでくれた。 大学 の入学試験にでも出そうな19世紀のもってまわった難解な英語を、英学転向 8年目の福沢は、完全に自分のものにしているのだ。 日本語にない語彙も多 かったこの時期、原文よりもわかり易く、しかも福沢流の平明な名文に移し換 えた才能のきらめき、いい時期に、いい人がいたことは、日本の幸福というほ かない。