江戸の上に暮す〔昔、書いた福沢60〕2019/05/26 07:52

    江戸の上に暮す<等々力短信 第636号 1993(平成5).5.15.>

 4月18日、今年も福沢諭吉協会の一日史蹟見学会に参加させてもらって、 港区内を歩いた。 福沢諭吉は、江戸に出てきた安政5(1858)年から、 亡くなる明治34(1901)年まで、内外旅行の期間を除き、43年間を江 戸・東京で過ごしたのだが、その足跡は、ほとんど城南の範囲にあるという。

 城南に生まれ育ち、ずっと住んできた者として、この地域は、土地カンのあ る、ごく身近な場所のはずだった。 今回の「小さな旅」は、港区文化財保護 審議会委員の俵元昭さんという名先達を得て、実(み)沢山のものになった。 城南は、意外な顔を持った「安・近・短」宝島、だったのだ。

 毎朝、通っている古川橋から麻布十番にかけての桜田通り、象印マホービン ビルの場所が、落語で名高い、麻布古川は、小言幸兵衛さんの長屋なのだそう だ。 麻布古川といえば、古川沿いならどこでもよさそうだが、町屋がある所 はごく限られていて、麻布古川の町名を称するのは、ここしかないという。  文政11(1828)年の惣家数9戸、規模もふさわしく、江戸長屋事情を語 る舞台として、かっこうの町を選んだものだと、俵さんはいわれる。 増上寺 の三解脱門(略して三門という、山門ではない。 受け売りに最適の知識だ) 前、道路を渡った植え込みの中に、万延元年遣米使節記念碑とペリーの首像が あることなど、ここも毎朝通っているのに、知らなかった。

進行中の汐留駅跡地の発掘調査では、いろいろなものが出てきたそうだ。  日本近代文明の夜明け、明治5年、鉄道の起点となった開業時の新橋駅は、図 面も残っていなかったが、120メートルのホームや駅舎跡が、きれいに発掘 された。 その下から、仙台藩と龍野藩の上屋敷が隣り合って出てきたが、仙 台六十六万石と龍野六万石の財力差は明白で、積み石の大きさの違いに、はっ きりと見られるという。 昔、両邸の子供が喧嘩をすると、仙台藩の子は「龍 野の俵振るい、やあい」と、ののしったらしい。 六万石ぐらい、伊達藩の俵 を振るっても出るというのだった。

 首都高速をへだてた今の貨物郵便局の所には、中津藩の上屋敷(殿様のいた 屋敷)があった。 江戸に到着した福沢が、まず行ったのが、「木挽町汐留」 のここだったし、明治2年には慶應義塾汐留出張所という分塾もできた。 私 が高校時代、新聞部で新聞を作っていたのは、この郵便局裏の辺、時事印刷と いう印刷屋さんだった。 実は「等々力短信」のルーツの一つは、その新聞な のだけれど、そこが中津藩の上屋敷とは、知らなかった。