腸チフスに二度かかるか〔昔、書いた福沢65〕2019/05/31 07:17

  腸チフスに二度かかるか<等々力短信 第669号 1994(平成6).4.25.>

 昨夏、毎年楽しみにしている「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)の会」のご案内 が、なかなか来ない。 しびれを切らせ、主宰者である都立墨東病院の藤原一 枝先生に電話をした。 「今年もやるなら、離婚する」と、ご夫君がおっしゃ ったとかで、今年はお休みだという。 だが、何か別の大きなことに、取り組 んでおられるご様子だった。 それは、チフスを主とする感染症を追いかける 「旅」だったらしい。 このたび『医者も驚く病気の話』(平凡社)という本 に結実した。 だから今年は、例の会が開かれる。

 前回の短信に福沢諭吉が登場したら、藤原先生から「年に15回は福沢先生 が出て来るでしょう」と電話をいただいた。 「そんなには、ないでしょう。  最近はパソコン通信のネットにも流しているので、だいぶ遠慮していますか ら」と、私。

 実は、藤原先生の新刊にも、福沢諭吉が登場する。 『福翁自伝』に、福沢 が二度、腸チフスにかかったとあるが、免疫の強い腸チフスに本当に二度かか ったのだろうか、という疑問が探求されてゆく。 福沢は、大坂の緒方洪庵の 適塾にいた、数え23歳の時に腸チフスにかかった。 愛弟子の大病に、洪庵 は「病は診てやるが、執匙は外(ほか)の医者に頼む」という、実の子供に対 する医者のような手厚い看病をしている。

 『福翁自伝』の別のところには「明治三年、ひどい腸チフスをわずらい」と ある。 慶應義塾が芝新銭座にあり『西洋事情・二編』を出した、数え37歳 の時のことだ。 ドクター・シモンズの「大いに滋養を与へて興奮品を用ふ可 し」、ミルクとソップ(スープ)と鶏卵剤とブランヂーという処方が、福沢を 救った。 真夏のことで、築地の牛馬会社の牛乳の瓶を、手桶の水に漬け、塾 生たちが芝までリレーで運んだという。

さて、藤原先生であるが、「福沢諭吉に心酔するBさん」に質問して、富田 正文先生の『考証福沢諭吉 上』(岩波書店)に至る。 そこには、主治医の 処方内容、証拠となる福沢自身の演説文、二度かかっても二度目は軽いはずな どの、詳細な探究の跡があった。 富田考証の結論は二度目は「発疹チフス」 というものだった。 Bさんは、現在の『福翁自伝』年譜と古い版のそれを比 べて、記述が「腸チフス」から「発疹チフス」に直されているのを発見し、 「こうした一つ一つの、ふだん軽く見過ごしてしまう記述の背後にも、深い考 証の裏付けのあることに、あらためて気づかせられて思わず衿を正しました」 と、藤原先生に書いてきたという。 Bさんて、誰。

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