未来をひらく 福澤諭吉展・2009年2019/06/18 07:02

      等々力短信 第995号 2009(平成21)年1月25日

              未来をひらく 福澤諭吉展

 珍しく風邪を引いて少し出遅れたが、20日の大寒に国立博物館表慶館の「未 来をひらく 福澤諭吉展」を見た。 知ってはいたが初めて見るものや、知らな いものも沢山あった。 「きりひらく実業」の「もう一つの福澤山脈」は好企 画で、信州丸子の製糸業起業家・下村亀三郎、日本陶器(現ノリタケ)の初代 社長・大倉和親、ノルウェー式捕鯨の岡十郎は、知らなかった。 明治44(1911) 年三田文学会講演大会の写真、前列中央に永井荷風がいて、後列に学生服の堀 口大學、佐藤春夫、久保田万太郎がいる(帽子は平たくない)。 水原茂着用の 野球部のユニフォームは、フラノの生地だった。

国博を会場にしたためか、「国光は美術に発す」という福沢の書幅を掲げ、福 沢の教えの中に「下からの」文化活動を感じたとする「福澤門下生による美術 コレクション」を展示している。 いささか強引と思ったのは、茶道具の名物 のことなど、少しもわからぬ下種の勘繰りだろう。 志木の校地を寄付した恩 人、松永安左エ門さん旧蔵の釈迦金棺出現図を見る。 白崎秀雄著『耳庵 松永 安左エ門』(新潮社)に、最晩年にこの絵を入手した事情と、その歓喜が描かれ ていた。 昭和36年の五千万円、今の十億円だろうか。 茶を始めて4、5 年で買った道具(今回も一部展示)の総額は今の百億円といわれ、松永安左エ 門さんはそれを東京と京都の国博、福岡市美術館に寄贈した。

松永さんは学生時代、福沢の朝の散歩のお伴をした散歩党の一人だった。 そ の著『人間 福澤諭吉』(実業之日本社)に、散歩党の島津理左衛門がいつしか 散歩に来なくなって、やがて死んだと聞く話がある。 あとで、福沢が逸早く この一学生の健康の異常に気付き、休学休養をすすめ、一旦郷里の長野に帰っ ていたのを見舞い、さらには田舎では治療もままならぬと自分で費用を出して、 松山棟庵の病院に入れてやっていたことがわかる。 今回の展示の中に、福沢 と散歩党の塾生の写真(明治32年5月9日)があって、その島津理左衛門が 写っていた。 福沢の手にしている散歩杖(長さ150センチ位)は、展示品の 昭和52(1977)年5月、麻布善福寺へ改葬した折に上大崎の常光寺の墓から 副葬品として出土したという竹製の散歩杖(127センチ)とは違うようだ。 松 永さんが書いている籐製の杖だろうか。 松永さんが忘れられないという、福 沢が散歩の途中友達のように談笑し合った乞食、おかま之助自筆の画なるもの も、今回の展覧会で初めて見た。 福沢は、この男も府立養育院に入院させた そうだ。

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