福沢のあかるさ〔昔、書いた福沢69〕2019/06/24 06:52

                  福沢のあかるさ

           <等々力短信 第745号 1996(平成8).8.5.>

 司馬遼太郎さんが亡くなった頃、パソコンネットである句会が始まり「道」 という題が出た。 いつもは参加していない句会なのだが、次の句が浮かんだ ので投句しようかと思っているうちに、その句会は中止されてしまった。 少 し残念だった。

           街道をゆけば菜の花大入り日    轟亭

 あれから半年、ようやく司馬さんのことを落ち着いて考えることができるよ うになった。 いろいろなことを教えてもらったなあと思う。 特に福沢諭吉 を通じて興味を持っていた幕末から明治にかけての、時代のイメージのかなり の部分が、司馬さんの本によって形作られたといっても、よいのではなかろう か。 というわけで、司馬さんの見た福沢諭吉というあたりから、ぼつぼつ司 馬遼太郎さんのことを考えてみたい。

 「街道をゆく」の「中津・宇佐のみち」で、司馬さんは中津へ行き、福沢の 家族や家系のことを考える。 中津奥平氏も、伊予宇和島の伊達氏も十万石。  中津最後の殿様奥平昌邁(まさゆき)は伊達宗城の三男で養子に来たから、 両都は親戚で、規模も、県庁を他市にとられた立地条件も似ているのだが、中 津が、かつてありもしなかった天守閣を、「再建」(と天守閣入場券の解説文 にあるそうだ)したのに、宇和島は市長の城址に武道館を建てる計画が市民の 反対で沙汰やみになったから、このことについては宇和島の勝ちだと司馬さん は書いている。 この天守閣は、福沢もきらいだろう。

 奥平氏の前の小笠原氏時代の中津に、福沢の先祖はあらわれる。 小笠原氏 は信州松本が封地だったこともある古い大名で、家臣に信州人が多かった。  福沢の祖も信州茅野あたりから出たと福沢家の伝説にいう。 福沢諭吉自身が 書いた東京の福沢家墓地の碑文に「……これに由て考れば福澤氏の先祖は必ず 寒族の一小民なる可し」とあって、これを司馬さんは「福沢のあかるさがよく 出ていて、いい文章である」という。

 司馬さんは、福沢の母お順の、聡明で、物事を「平明」にみる性格を特筆し ている。「平明」というのは、物事をことさらむずかしく表現したり、形式ば ったりしないということだ。 明治になって東京に迎えたこの母が死んだ時、 福沢は葬儀に貴顕紳士の参葬を受けたり、塾生を参列させるといったことは一 切しなかった。 福沢は着物にパッチ尻端折で、二人の孫の手をひいて、棺の あとに従った。 司馬さんは「このあたりも、福沢の生涯で、いちばん感じの いいあたりである」と、書いている。