福沢の海舟評価〔昔、書いた福沢72〕2019/06/27 07:19

               福沢の海舟評価

       <等々力短信 第749号 1996(平成8).9.15.>

 8月15日の第746号に「幕末軍艦咸臨丸」を書いたところ、短信の読者 で、福沢諭吉協会会員、福沢と松下幸之助についてのご著書もある赤坂昭さん からお手紙を頂いた。 『瘠我慢の説』で、福沢が問題にしたのは、瘠我慢の 主張というより、もっぱら勝海舟の維新後の姿勢であるという。 維新後、海 舟は過去の功績と名声を笠に着て、自慢話に耽るとか、家庭生活上の問題と か、とかく節度を欠いた傍若無人の振舞いが見られ、それが潔癖な福沢の倫理 観を刺激し、日本の社会をリードする政治家として、モラルに問題があると、 福沢が考えたのではないかと、赤坂さんはいわれるのだ。

 私が、驚いたのは、福沢自身、勝海舟の政治的功績を十二分に認めていた、 という赤坂さんのご指摘だった。 『瘠我慢の説』の付録に、国民新聞の批評 に対して答えた 「瘠我慢の説に対する評論に就て」という文章があり、その 中で福沢は「江戸開城は、其出来上りたる結果を見れば、大成功と認めざるを 得ず」といい、「抑も勝氏が一身を以て東西の間に奔走周旋し内外の困難に當 り、円滑に事を纏めたるが為にして、其苦心の尋常ならざると其功徳の大なる とは之を争ふ者ある可からず」と、いっていたのだ。 不勉強が明らかになっ てしまった。 福沢は、勝海舟のその功績は認めながらも、「主家を解散した る其功を持参金にして新政府に嫁し、維新功臣の末班に列して爵位の高きに居 り俸禄の豊かなるに安んじ、貴顕栄華の新地位を占めた」ことが、武士として の徳義操行において、天下後世に申し訳が立つまいと、痛烈に批判したのであ った。

 第746号で「幕末の争乱に際し、江戸を無血開城して、日本を内乱という 大混乱とそれに乗じての外国勢力による植民地化から救ったのには、勝海舟の 力が大きかった」と書いた。 赤坂さんのお蔭で「瘠我慢の説に対する評論に 就て」を読み、福沢が「外国勢力による干渉」の危険をまったく否定していた ことを知った。 海舟が真の禍(わざわい)とみていたのは、流血や散財とい う眼前の禍ではなくて、外国の干渉であるとした、国民新聞の批判を、幕末外 交の真相をつまびらかにしていないためだと反論しているのだ。 ほぼ百年た って、私が大学に入った1960年、石井孝さんの『明治維新の舞台裏』とい う衝撃的な岩波新書が出た。 幕末の政争の裏に、英仏両国の策動やかけひき があったのは事実である。 あれほど日本の「独立」を説いた福沢が、なぜ晩 年のこの一文で、外国の干渉を否定したのか、興味をひかれる。