講談「慶應讃歌誕生物語~平岡養一の生涯~」前半2019/06/28 07:13

 6月21日は、慶應義塾3高校新聞部のOBOG会「ジャーミネーターの会」 が、丸の内二重橋ビルに移転、新しくなった日本外国特派員協会で開かれた。  千代田線の二重橋前駅から行って、ウロウロしてしまったが、東京會舘の入っ ているビルだった。 昭和47年商学部卒の若林誠二さん、芸名若林鶴雲さん の講談「慶應讃歌誕生物語~平岡養一の生涯~」を聴いた。 中等部から大学 まで體育會弓術部で活躍、女子高弓術部の監督も務めた。 サラリーマン定年 退職後、アマチュア向け講談教室で学んで講談に傾注、ボランティアで社会福 祉施設や被災地の慰問に「忠臣蔵」などを演じ、慶應義塾関連の創作講談によ って、「連合三田会」始め海外までの各地三田会に招かれ、年間40回ほどの公 演をこなしているという。

 出囃子のない講談だが、「若き血」三味線バージョンで高座へ、空いている席 以外、満員の会場で、と始める。 この近く帝劇のあるビルの石油会社に勤め ていたが、このビルなどは浦島太郎状態、二日前に70歳になった。 慶應卒 の音楽家、平岡養一(明治40(1907)年~昭和56(1981)年)。 徳川三卿 の一つ、田安家の家老の家柄で、父寅之助は芦屋の日本製樽に勤め、東須磨に 住んでいた。 養一は口唇口蓋裂で発声が困難、小学校でいじめられ、東京三 田の聖坂に越して入った慶應幼稚舎でもいじめられた。 母てふは、あなたが 神様から授かったものは、何? と養一を諭した。 姉の静子が、養一を銀座7 丁目にある映画館コンパル館に映画を観に連れて行ってくれ、無声映画の伴奏 をしている木琴、ザイロフォンを見て、やってみたいなと思う。 銀座7丁目 の共益商社(ヤマハの前身)に木琴、金5円があった、サラリーマンの給料が 30円の時代だ。(決め所で、張り扇を叩く) 父に世界一の木琴奏者になると 言って、買ってもらった。 毎日熱心に木琴を練習し、普通部を出て、大学に は行かずアメリカに行きたいと言うと、父に大学だけは出ておけと言われ、予 科に進み、経済学を学ぶ。

50曲を木琴用に編曲、昭和2年5月、木琴演奏会を400人入る帝国ホテル 演芸場、ルイ王朝風の会場で開く、養一は慶應の学生服姿だった。 昭和5年 3月、経済学部を卒業したが大不況の真最中、ポリドールレコードが片道運賃 千円を出してくれ、日本青年館で送別演奏会を開き、3か月分の生活費を持っ て、秩父丸でアメリカへ。 生活費が乏しくなると、パンに砂糖をかけて食べ た。 9月、NBCのオーディシヨンに合格、翌昭和6年3月から朝の木琴生演 奏のラジオ番組への出演が始まり、この番組は4千回、10年9か月続いて、平 岡養一の名は全米に浸透し、「アメリカ全土の少年少女は、ヨーイチ・ヒラオカ の木琴で目を覚ます」と言われた。 昭和11年11月21日、ニューヨークの タウンホールでリサイタルを開き、ニューヨークタイムズも絶賛のコメントを 掲載した。 昭和12年3月、姉と同じ名前の日系二世の静子と結婚する。 昭 和13年夏、31歳で、ついにカーネギーホールでリサイタルを開く栄光をつか み、編曲の優秀さを認められる。 しかし、日米戦争の開戦が近づいてきてい た。