講談「慶應讃歌誕生物語~平岡養一の生涯~」後半2019/06/29 07:08

 日米戦争となり、帰国するか迷う平岡養一に、当時のニューヨーク市長フィ オレロ・ラ・ガーディア(ラ・ガーディア空港にその名が残る)がアメリカに 残ることを勧める。 だが、養一は要人に迷惑がかかることを恐れ、一家で帰 国することを決断し、交換船で日本に帰国する。

 日本でも、クラシックの演奏は軍部が文句を言わない、ドイツとイタリアが 同盟国だったから。 空襲に遭わず、尾山台の借家で暮していたが、戦後、そ の家に親戚が戻ることになって困り、ササヨシマサという慶應の先輩の厄介に なって下馬のその家の二階へ越す。 ササは、明治45年の慶應野球部第一回 アメリカ遠征の折に、国内留守部隊として活躍した人で、その家には野球部員 や応援指導部員が賑やかに出入りしていた。 養一は、その連中に木琴を聞か せたりしていたが、昭和21年春のリーグ戦で慶應は早慶戦で逆転優勝する。  そして、慶應のために歌を残したいと思うようになり、昭和22年5月の慶應 義塾90周年記念式典に合わせ、浮んだメロディをピアノで弾いて、ササに聞 かせる。 気に入って、作詞まで手掛け給えと言われる。 作詞は難しい、若 林鶴雲も某俳句会で俳句をつくるが、説明ばっかり、映像を描けと言われる。

 養一は、第一節は敗戦した祖国日本の再建を若き塾生に期待して、第二節は 早慶戦勝利の喜びの歌を、第三節はわれわれ塾員がいつまでも素晴らしい母校 を偲び、塾員であることを終生の誇りとして歌えるものを、と一か月かけて作 詞した。 (ここで「慶應讃歌」を流す。) 「光あふるゝ三田の山 我等が校 庭(にわ)に集いたる」(時間の関係で、ここまで) そして、藤山一郎、藤浦 洸などとも協力して、「Victory March」「オール慶應の歌」「讃歌「幼稚舎生の 歌」」が生れる。

平岡養一は、2000回の木琴演奏会を開催した。 昭和37年11月には、再 びカーネギーホールでリサイタルを開いた。 奥さんは戦中、二世だったこと もあって、スパイを疑われ苦労していた。 翌昭和38年、アメリカでの永住 権を得て、再び渡米することになった。 9月3日、横浜大桟橋は盛大な見送 り風景が展開され、応援指導部のブラスバンドが「慶應讃歌」を演奏し、船上 から身を乗り出した平岡養一が指揮を執った。 5年後には、アメリカの市民 権を獲得。 日本とアメリカを往き来しながら、精力的に演奏活動を展開し、 日米の文化の架け橋となった。 昭和53年11月、勲四等瑞宝章受章。 昭和 56(1981)年、73歳でロスに死す。 石川忠雄塾長は弔辞で、平岡養一のモ ットーが「幸福と成功は自ら勝ち取らなければならない」だったと述べた。

若林鶴雲さんの講談、グイグイと聴く者を引き込む、アマチュアの域をはるかに越える好演だった。 おかげで、平岡養一の生涯を初めて知ったのだった。

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