立川生志の「紺屋高尾」上2019/07/03 07:25

 令和になって二か月、落ち着いてきたのかどうか、ヤミ営業やってたお笑い が話題だけど、パッと見て詐欺集団とわからないのは失格。 今は自分でやっ ているが、前座の頃は立川企画、弟さんがやっていた。 どちらかというと立 川企画がヤミ営業してた。 談志の鞄持ちをしていた31年前、3千円×5日で 1万5千円というのが、バブル真っ盛りの頃の月収。 談志が練馬区石神井台 にいたので、大泉学園で部屋を探した。 1万円台、屋根付き、というのは駐 車場だった。 四畳半一間、1万7千円というアパートに入れてもらった。 貧 乏学生が多かったが、イランからの出稼ぎの人を一人入れた。 貧乏学生が引 っ越して行き、イラン人が増えて、日本人は僕一人になった。 近所ではコー ポ・テヘランと呼ばれていた、植村荘という名だったが…。 サッカーの日本 対イラン戦などは、東京にいながら完全アウェー、怖かった。 最後まで、日 本の領土を守りぬいた。 24、5歳で、ほっそりしていた。 噺をして、おひ ねりをもらうと、千円札が入っていた。 学習能力がある。 九州でおばあさ んに、おひねりをもらったら、中からビスケットが出て来た。 よく耐えた、 生きていた。 でも、小さん師匠、志ん朝師匠とお目にかかれた、楽屋が一緒 で。 若手のコンクールがあって、志ん朝師匠が一番上は誰? と訊いて、一万 円、チューハイでも飲んで、とくれた。 その姿だけでも、カッコいい。 ウ チの師匠談志もトリを取っていた、着替えて、弁当の残り全て持って行った、 カッコ悪い、恥ずかしい。

 身近でカッコいいのが、四代目の左団次、高島屋。 踊りを習いに通ってい たが、洒落が好きで、楽屋を訪ねると、気を付けなさいよ、噺家さんが来てい るから、何かなくなるよ、なんて言う。 立川左団次と一緒の時、市川左団次 も付いて来た。 夜中に、立川左団次の家で市川左団次がピンポンと鳴らし、 「左団次です」。 「わかってるわよ」、と奥さんが出ると、市川左団次。 こ ういう洒落をなさる。 博多で芝居が終ってご飯に行き、高級クラブを二三軒 ハシゴし「生志さん、飲んで」と、「もう、久しぶり、パパ」なんて言われてい る。 79歳、80歳におなりになる。 せめて送らせてと、タクシーで何メー ターか行くと、晩くまで有難う、一万円渡してくれる。 カッコいい、落語の 世界にこんな人はいない。 こないだのお釣り返せ、と言われたことがある。  持てる人は、持てようとしなくても、持てる。 今も昔も変わらない。

 吉原、向こうは商売。 「傾城の恋はまことの恋ならで、金持って来いがほ んとのこい也」、「書いた起請も当てにはならぬ、筆に狸の毛が混じる」、「傾城 に誠なしとは誰(た)が言うた、誠あるまで通いもせずに」。 その傾城に、こ んな誠があったという一席で。

 久蔵どうした、三日飯を食わねえって、死んじゃうよ。 親方。 起きろ、 薬か、医者か。 あっしの病いは治らない、お医者様でも、草津の湯でもとい う病いで。 惚れた病いは、恋患い。 職人じゃないか、連れて来い。 やっ ちゃったらいい、親方が手でも足でも押えてやる。 下へ行って下さい。 言 って見ろ、相手の名前。 驚きますよ。 おい、お前、上がって来い、久蔵が お前に恋患いだ。 誰がおかみさんに惚れますか。 実は、三日前に初めて吉 原へ行った、夜、花魁道中になって、天人が天下った。 ヒエッーーーッ! 息 しないと、死ぬよ。 ひときわ奇麗なのは、三浦屋の高尾太夫だった。 帰っ て来て、小便しても寝られない。 何を見ても、高尾に見える。 親方ーーッ!  気持悪い。 逢えますか? 大名道具という太夫だが、花魁は売り物だ、金を 持って行きゃあな。 高尾だって、八王子だって。 いくら? 十五両はいる かな。 あっしに、稼げますか。 一生懸命三年働け、俺が逢わしてやる。 久 蔵はシャケの茶漬で、十三杯食った。 それからは、十五両三年で高尾、十五 両三年で高尾…、と。

 あっという間に、三年の月日が経つ。