赤松小三郎訳の『英国歩兵練法』2019/07/13 07:16

 福沢の兵書翻訳の内金領収書、「千八百六十七年式英兵練法」の話を聞いて、
すぐ私が思い出したのは、下記に書いた赤松小三郎の名前とその翻訳書だ。
可哀そうな赤松小三郎をご存知?<小人閑居日記 2018.9.10.>
赤松小三郎は咸臨丸に乗れなかった<小人閑居日記 2018.9.11.>
下士の鬱屈、英語とイギリス兵学を学ぶ<小人閑居日記 2018.9.12.>
薩摩兵に英国式兵学を伝授<小人閑居日記 2018.9.13.>
赤松小三郎「御改正口上書」<小人閑居日記 2018.9.14.>
赤松小三郎「口上書」と『西洋事情』初編<小人閑居日記 2018.9.15.>
関良基著『赤松小三郎ともう一つの明治維新 テロに葬られた立憲主義の夢』<小人閑居日記 2018.9.16.>

 関良基著『赤松小三郎ともう一つの明治維新 テロに葬られた立憲主義の夢』
(作品社)に、こういう話が出て来る。 上田藩士の芦田清次郎(後の赤松小
三郎)は嘉永5(1853)年、22歳の時、西洋兵学者の下曾根金三郎信敦の塾に
入門している。 翌安政2(1855)年には、勝海舟の門人となり、勝の従者と
して、同年に創設された幕府の長崎海軍伝習所の員外聴講生となる。 遣米使
節、咸臨丸への乗船を希望したが選に漏れ、上田で兵制の洋式化に関わってい
た。 元治元(1864)年、小銃など武器の買い付けで、再度江戸に出る機会が
あり、横浜在留のイギリス騎兵士官ヴィンセント・J・アブリン大尉に英語を
教わり、騎兵術に関する英書を借りたりした。 慶応元(1865)年2月20日
には下曾根塾に再入門し、金沢の浅津富之助(後の海軍官僚南郷茂光)と共に、
英国陸軍の歩兵調練の教本「Field Exercise and Evolutions of Infantry(歩兵
の野外演習と運動法)」の翻訳を始める。 4月、第二次長州征伐で大坂へ行く
が、陣中も翻訳を進め、慶応3(1866)年3月に『英国歩兵練法』全五編八冊
の完訳がなる。 全五編中、一・三・五編が小三郎の訳、二・四編が浅津の訳
だった。

 慶応2(1865)年2月、薩摩は兵制をオランダ式からイギリス式に改めた。 
その流れで、赤松小三郎に白羽の矢が立ち、教授、調練を行う指導者として招
請されることになる。 慶應3(1867)年4月12日、島津久光に従って、薩
摩兵総勢700名が入京、在京の者も加え800名に、赤松小三郎は薩摩藩邸で英
国兵学を教え、隣接する相国寺境内では英国式で調練する役割を担う。 その
中には、篠原国幹、樺山資紀、東郷平八郎、上村彦之丞などなど、後の日本の
陸海軍を担う主要な人材が揃っていたのだ。

 先に下曾根塾から出版された『英国歩兵練法』だが、刊行後誤訳も見つかり、
薩摩は1864年にイギリスで出版された改訂版原本により、今度は小三郎単独
での翻訳を依頼した。 その翻訳は慶應3年5月に完成し『重訂英国歩兵練法』
(全7編9冊)として刊行された。 島津久光は完成を喜んで、小三郎に世界
最新式の騎兵銃を与えた。

 私は、福沢が翻訳した「千八百六十七年式英兵練法」は、もしかしたら赤松
小三郎訳の1864年版『重訂英国歩兵練法』と同じ原書の1867年版ではないか
と思ったのである。

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