谷中掃苔〔昔、書いた福沢78〕2019/07/19 06:55

               谷中掃苔

       <等々力短信 第773号 1997(平成9).5.25.>

 雨という予報もあった18日の日曜日、さわやかに晴れて気持のよい日にな った。 今年の、福沢諭吉協会の一日史跡見学会は「森まゆみさんと谷中・根 津を歩く」という企画だった。 森まゆみさんは、集合場所の日暮里駅南口 に、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』や著書をたくさん詰めたカバンを荷台に 載せて、自転車で現われた。 藍染めのスモックに、ジーンズ姿だった。 今 や売れっ子で、すっかりメジャーになった森さんが、『小さな雑誌で町づく り』(晶文社)や『ひとり親走る』(講談社)に書かれているように、雑誌 『谷根千』創刊後の奮闘時代、生まれたばかりのご長男をおぶい、上のお子さ んと『谷根千』を載せて、取材と売り込みに、谷中・根津・千駄木を走りまわ っていたという、その自転車で登場したのである。 とても、好感がもてた。

 まず、天王寺。 元禄3(1690)年鋳造という釈迦牟尼仏の前で、天王 寺の歴史から話し出した森さんは、ちょっぴりやりにくそうだった。 史跡見 学会の常連に、日本史の松島栄一先生がおられる。 森さんは早稲田で、松島 先生の講義を聴いたのだろう。 天王寺は、谷中の巨刹、感応寺の後身。 こ この富くじは、湯島天神と目黒不動とともに「江戸の三富」として知られ、最 も人気があった。 富興行が盛んになり、人出が多くなる、宝暦、明和、安 永、天明、化政といった時代には、門前の茶屋町は「いろは茶屋」と呼ばれ、 私娼窟として繁盛していた。 落語の源泉のような所だ。

 明治29年11月2日、ここ天王寺で、馬場辰猪の八周忌が営まれた。 か つて明治7年ロンドン留学中の馬場辰猪宛の手紙で、心身を健やかにして飽く まで勉強の上帰朝して、我ネーションのデスチニー(国民の運命)を担当して もらいたいと激励した福沢諭吉は、38歳でアメリカに客死したこの期待の愛 弟子への追弔辞で「君は天下の人才にして其期する所も亦大なりと雖も、吾々 が特に君に重きを置て忘るゝこと能はざる所のものは、其気風品格の高尚なる に在り」といい、福沢諭吉 拂涙記と書いている。

 その八周忌の折に建てられた馬場辰猪のオベリスクの墓をメインに、中村正 直、桜痴福地源一郎、小野梓、鼎軒田口卯吉、箕作秋坪、徳川慶喜、渋沢栄 一、それに公衆トイレの隣の高橋お伝の墓などを見て廻る。 辰猪と同じ形で 並ぶ、弟馬場孤蝶の墓は島崎藤村の筆、明治学院の縁だろう。 馬場辰猪とは 親戚でも何でもない私だが、谷中に、親戚の墓でも出来たような、親しみを感 じることとなる一日であった。