J・RとH・J、ブラック親子〔昔、書いた福沢83〕2019/07/24 07:20

              J・RとH・J、ブラック親子

        <等々力短信 第807号 1998(平成10).5.15.>

 第800番荘田平五郎宛書簡の松崎欣一さんから、新刊のご大著『三田演説 会と慶應義塾系演説会』(慶應義塾大学出版会)を頂戴した。 十年ほど前、 『福沢手帖』に掲載された松崎さんの論文を読んでいて、明治12年に薫誘舎 演説会で『日新真事誌』の創刊や『ヤング・ジャパン』の著述で知られるJ・ R・ブラックが演説したという記述に、疑問を感じた。 落語好きだから偶 々、J・R・ブラックの息子で、イギリス人落語家として人気のあった快楽 亭、H・J・ブラックが、その当時、寄席などで政談演説もやっていたと聞い ていたからである。 手紙でお知らせしたのをきっかけに、松崎さんは論文 「J・R・ブラックとH・J・ブラック」を書かれた。 今回のご恵贈は、そ の二論文が収録されているという、有難くも光栄なご縁によるものであった。

  この問題についての宮武外骨と花園兼定との論争や、快楽亭ブラックの座談 記録などを考証された松崎さんの結論は、こうだった。 薫誘舎演説会の「ブ ラック」は、快楽亭ブラックであった可能性がきわめて高いものの、J・R・ ブラックであった若干の可能性も、なお存在する。 この論文はまた、芝白金 三光町に住んでいたJ・R・ブラックの妻とその娘が、福沢諭吉の子女や孫た ちに英語や編物、料理、地理、歴史などを教える家庭教師を務めたという興味 深い事実にも言及し、清岡暎一先生(諭吉の三女しゅんの子息、『福翁自伝』 の英訳者)の貴重な次の証言も引き出している。 福沢家とブラック家の関係 は、J・R・ブラックの死後、毎日の食事にも窮しているのを聞いた福沢が、 それならうちの娘達に英語を教えてもらおうかと思い立ったことに始まったと いう。 勝手に遊び歩いていた上の息子H・J・ブラックについては、母親に さんざん心配をかけたので、福沢の家では、本当の不良、全くのならず者のよ うに思っていたらしい。

  薫誘舎演説会の会場は、数寄屋河岸内有楽町3丁目だった。 明治10年の 鎗屋町講談会は京橋区鎗屋町7番地の東京医学会社の社屋で開かれたと、松崎 さんの同講談会についての論文にある。 東京医学会社は明治8年に松山棟庵 らが興した会社で、前号でふれた松山と高木兼寛の「成医会」はその建物を引 き継いでいる。 「京橋」と書いたが、京橋区鎗屋町、現在の銀座4丁目、天 賞堂や銀座文化のある一角だ。 明治13年に設立された交詢社は南鍋町だ し、憲法論議の演説会やら医学振興やら、この時期、文明開化を推し進めよう とする熱気が、銀座界隈に渦巻いていたのである。

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