氷のたまご〔昔、書いた福沢85〕2019/07/26 07:08

                 氷のたまご

       <等々力短信 第810号 1998(平成10).6.15.>

 日本における人造氷は、『世界大百科事典』の鈴木晋一氏の解説によれば、 明治16(1883)年に東京製氷会社、同32(99)年に機械製氷会社が 設立され、ことに後者が本所業平橋の工場で日産50トンの生産を開始するこ とによって普及し始めたのだそうだ。 だが、実験的な人工製氷は、すでに明 治3(1870)年に行なわれていて、そこに福沢諭吉が登場する。 『世界 大百科事典』の記述を、富田正文先生の『考証 福沢諭吉』上(岩波書店)で 補いながら書いてみたい。 

  この年5月、福沢は以前「腸チフスに二度かかるか」(等々力短信669号) でみたように、発疹チフスにかかり、連日高熱が続いていた。 ドクター・シ モンズや高木兼寛の師ウィリス、伊東玄伯、石井謙道、島村鼎甫、隈川宗悦、 早矢仕有的(丸善の創業者。この人、医者だったと初めて知る)という最高の 医師団が治療にあたった。 福沢の高熱を冷やすために氷が必要だったが、当 時東京市中には氷を売る店がなかった。 たまたま旧福井藩主松平春嶽が製氷 器を外国人から買って持っているが、使い方がわからずに放置してあるという 話を聞き、これを借り出して、福沢の親友の化学者で、大学東校の教授宇都宮 三郎に実験を依頼した。 宇都宮三郎は、いろいろと原書も調べて、製氷を試 みたという。

 明治31(98)年8月28日の『時事新報』は、宇都宮三郎が試運転を して「何の苦もなく氷塊を造り出でたり」として「是れ実に本邦人造氷の元 祖」とたたえているそうだが、実のところは、小さな氷塊がいくつか出来たと いう程度だったらしい。 その時、製氷作業を手伝った石黒忠悳(のちに軍医 総監)の晩年、富田正文先生が直接面接して聞いた談話では、皆で汗だくにな って骨折ったが、結局結氷を見ることができず、やや冷たくなった水に手拭い を浸して、これでも氷のたまごだから、これで先生の額を冷やしたらどうかと 言ったくらいに過ぎなかったという話だったという。

 結局、横浜で函館の天然の囲い氷を船で取り寄せて売っているのを、人を派 して買い、徹夜で芝新銭座(現在の浜松町1丁目)の福沢宅まで運んだとい う。 また、シモンズの処方にあったミルクを買うのに、夏のことであるから 手桶の水に牛乳瓶を漬けて、築地居留地の牛馬会社から新銭座まで、塾生たち がリレーで運んだという話が伝えられている。 生死の境をさまよった福沢 は、そうした周囲の懸命の看病のおかげで、九死に一生を得、辛うじて回復す ることができたのであった。