百回忌〔昔、書いた福沢87〕2019/07/28 08:22

                 百回忌

       <等々力短信 第867号 2000(平成12).2.5.>

 2月3日は福沢諭吉の命日である。 福沢は二十世紀を迎えて間もなくの、 1901(明治34)年のこの日に亡くなったから、来年は没後100年とい う年になるし、今年は仏教でいう百回忌にあたる。 慶應義塾には、この日に 墓参りをすると、落第しないという伝説があって、志木の高校へ通っていた時 は、いつもより早く家を出て、仲間と一緒に目黒駅で途中下車し、ちょうど日 の出の頃に、当時は上大崎の常光寺にあったお墓をお参りした。 一年で一番 寒い季節なので、身の引き締まるような思いがすると同時に、清々しい、とて もよい気分のものであった。 なつかしい思い出である。

 1898(明治31)年9月、福沢は脳溢血で倒れ、重態に陥った。 最高 の医師団が編成された。 一時は、北里柴三郎に頼まれて来診したドクター・ ベルツが、帰りしなに長大息して「ヒズ・キャリア・イズ・オーヴァー」とつ ぶやいたと伝えられるほどの容態だったが、奇跡的に回復し、ふた月ほどで慶 應義塾の構内を散歩できるまでになった。 翌99年はもっぱら静養につと め、11月に至って、広尾の別邸(今の幼稚舎のところ)に病中見舞を受けた 6~7百人を招待して、園遊会を催したという。

 十九世紀を送り、二十世紀を迎える、1900(明治33)年の大晦日から 1901年の元旦にかけて、慶應義塾では「世紀送迎会」を挙行した。 午後 8時に教職員学生5百人余が晩餐会に集まり、福沢も出席して「独立自尊迎新 世紀」と大書し、集まった人々と愉快そうに談笑したという。 その後、校庭 で「パフォーマンス」なるものが行なわれた。 除夜の鐘を合図に、因循、姑 息、旧思想、旧道徳を寓意した「古聖人の夢にしがみつく儒教者」「いばる特 権階級」「妾をもつ富裕者」の絵に向って生徒隊の一斉射撃があり、同時に火 がつけられて、絵が燃え上がると、仕掛け花火で「20センチュリー」の文字 が現れた。 福沢は終始この催しに立ち会い、すこぶる上機嫌だったらしい。

 このような「西暦」を意識した行事は、当時はおそらく珍しかっただろう。  上野の戦争の最中でも授業を休まず、「いかなる騒動があっても、洋学の命 脈を断やしたことはない、この塾のあらん限り、大日本は世界の文明国であ る」、と学生たちを励ました福沢の塾らしい、時代の先端を行く気概が感じら れる行事である。

 「世紀送迎会」から間もない1月25日、福沢諭吉は脳溢血を再発、2月3 日の午後10時50分に亡くなった。 満年齢で66年1か月であった。