高校卒業40年〔昔、書いた福沢88〕2019/07/29 07:20

               高校卒業40年

       <等々力短信 第873号 2000(平成12).4.5.>

 3月24日、慶應義塾志木高等学校の卒業式に、同期の仲間とともに招かれ て、今年の卒業生の門出を祝福する機会を与えられた。 卒業40年に当った からだが、じつに良い気持のもので、つくづく出席してよかったと思った。  われわれが卒業したのは、1960(昭和35)年で、安保改定騒ぎの年であ る。 母校も志木の町も、私たちが通っていた戦後12~15年の当時とは様 相を一変していたが、あいかわらずお元気な恩師の皆様にお会いし、懐かしい 同期生と一言二言交わせば、40年という時間はアッという間に消え去る。 

  卒業生はきちんと塾伝統の学生服を着ており、一人一人の名を呼び、鐡野校 長が卒業証書を授与する卒業式は、粛々と行なわれた。 四、五人が、壇上で 塾長や校長と写真を撮るなどしただけで、大したパフォーマンスもなかった。  鳥居塾長は祝辞で、数年前の塾内高校の卒業式がひどかった話をし、今日は 90点、まあ良かったとしながらも、チクリ、人生の節目に“rituals”(儀 式)というものがあることの意義を説いた。 七五三、結婚式、そして葬式 も、“rituals”だと…。

 1月10日には、三田で行なわれた「第165回福沢先生誕生記念会」に出 た。 今年は、1月10日がたまたま成人の日の祝日で、会社が休みだったか らである。 あれから40年だという感慨もあった。 高校3年生だった 1960年1月10日、志木高校から大阪で行なわれた「第125回福沢先生 誕生記念会」に派遣された。 大学は全塾自治会の委員長が、日吉の高校や女 子高からは新聞の編集長が来ていたところをみると、成績によるものではな く、生徒会や新聞部に関係していたための人選らしかった。 「一芸推薦」の はしりのようなものか。 幼稚舎代表の生徒を引率して参加されたのが桑原三 郎先生で、そのご縁から桑原先生と、各学校代表の内のお二人が、今も「等々 力短信」の読者である。 

  大阪では新大阪ホテルで食事をし、福沢が学んだ緒方洪庵の適塾を見学、 10日の当日は堂島の阪大病院内の福沢生誕記念碑前の式典に参列し、大阪三 越での板倉卓造・滝川幸辰両氏の記念講演会や京阪神連合三田会主催の祝賀パ ーティに出席した。 京大の滝川さんには悪いけれど、こういう社中の連帯が 官学にはない私学の、特に慶應義塾の良さだろうという、パーティでの小泉信 三さんのスピーチが、深く印象に残った。 「等々力短信」によく福沢諭吉が 登場するところをみると、高校生の私を大阪へ送った慶應義塾の深慮遠謀は、 成功したのかもしれない。