『本の運命』〔昔、書いた福沢103〕 ― 2019/08/21 07:05
『本の運命』
等々力短信 第929号 2003(平成15)年7月25日
井上ひさしさんの『本の運命』(文春文庫)を読んだ。 本屋で、ふと一冊の 本が目にとまり、手を伸ばす、そこには不可思議な力が働いている。 一冊の 本が、読んだ人の考え方、生き方を変えることもある。 本自体も、人の手か ら手へと渡っていく。 井上さんの仕事部屋の床を抜いたツンドクの13万冊 は、故郷山形県川西町の本を読みたいという若い人たちに寄付されて、田んぼ の真ん中にデーンと建った「遅筆堂文庫」となって、いま輝いている。 そし て、勉強に来た高校生が、ひょっとその一冊を手にしたことで、運命的な出合 いをするかもしれない、という。 石川淳さんの「本は市塵に返せ」「収集家が 個人的にしまっておくのは、本を知らない人のやることで、本は絶えず人の手 に取ってもらうことで生きていくんだ」という言葉も紹介されている。
先月20日、慶應三高校(女子、日吉、志木)の新聞部仲間の会があり、9 年上の先輩で幼稚舎の舎長をなさった中川眞弥さんの「『文字之教』を読む-徳 富蘇峰の指摘-」という興味深い話を聴いた。 徳富蘇峰は明治23年に、福 沢諭吉の子供向けの国語教科書『文字之教』(明治6年刊)を読み、福沢につい て世間で認める新日本の文明開化の経世家としてではない一面、つまり文学者 としての福沢の役割、日本文学が福沢に負うところの多いことを指摘していた。 福沢がすでに明治6年の時点で、平易質実、だれでも読むことができ、だれで も理解できる「平民的文学」に注意したことがわかる、と。 そして福沢「平 民的」文章の特色を七つ挙げ、特に諧謔、頓智、諷刺、とりわけ嘲笑、懐疑的 香味を伴った嘲笑が、ひとには真似の出来ない天性のもので、実に旧日本破壊、 新日本建設に際して、人々を目覚めさせるのに一大利器になった、という。
私の福沢入門が高校生の時、甲南大学の伊藤正雄さんの『福沢諭吉入門』(毎 日新聞社)との出合いだったことは、たびたび書いた。 中延の西肥堂書店で 手にして、たちまち福沢の文章の面白さに引き込まれた。 中川眞弥さんが引 用された徳富蘇峰の指摘は、伊藤正雄さん編の『資料集成 明治人の観た福沢 諭吉』(慶應通信)に収録されている。 高校時代から45年、ずっと福沢いか れ派だった私の書棚には、伊藤正雄さんの著作を始めとする福沢関係の書籍が、 少しは集まっている。 『福沢手帖』『福沢諭吉年鑑』も揃っている。 ボケた り、おさらばの時には、福沢を研究する若い人か、慶應志木高校の図書館にで も、もらってもらえたら有難いなどと考えた。
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