福沢索引「等々力短信」952号~1000号〔昔、書いた福沢107〕2019/08/25 05:39

 2005(平成17)年5月25日の「等々力短信」第951号からは、インターネットの朝日ネットのブログ「轟亭の小人閑居日記」http://kbaba.asablo.jp/blog
に配信することにしたので、以後「等々力短信」に〔昔、書いた福沢〕は、そちらで読んで頂ける。 福沢に関する「等々力短信」を、まず1000号まで索引として挙げておきたい。

第952号 2005(平成17).6.25. 『蝶の舌』/ファシズムとスペイン内戦の影、福沢に対する探偵報告書
第954号 2005.8.25. 『語り手としての福澤諭吉』/松崎欣一著、日本近代化の根底を築く「演説の法」
第960号 2006(平成18).2.25. たった5年目、明治5年/維新の気分満つ、福沢『改暦弁』『学問のすゝめ』
第968号 2006.10.25. 福沢諭吉「心訓小説」/清水義範『心訓小説 福沢諭吉は謎だらけ。』
第970号 2006.12.25. 107年目のスコットランド帰郷/エジンバラにW・K・バルトンの記念碑建つ
第974号 2007(平成19).4.25. 『交詢社の百二十五年』/竹田行之著「知識交換世務諮詢の系譜」
第986号 2008(平成20). 4.25. 安政5年・1858年/幕末の動乱始まりの年、福沢塾も始まり、創立150年
第987号 2008. 5.25. 平山洋著『福澤諭吉』の挑戦/「新たな福沢像」と論争の期待
第988号 2008. 6.25. 『広辞苑』の【福沢諭吉】/小尾ゼミOB会「紫陽花ゼミ」で話す
第994号 2008. 12.25. 幕末外交の真相/萩原延壽・藤田省三『瘠我慢の精神』
第995号 2009(平成21). 1.25. 未来をひらく 福澤諭吉展/もう一つの福澤山脈、散歩党松永安左エ門
第998号 2009. 4.25. 桑原三郎先生のお手紙/「短信」のよき読者、筆まめは敬愛する福沢先生ゆずり
第1000号 2009.6.25. 保養地・沼津へ行く/静浦・保養館と内浦・三津浜

『ベアテの贈りもの』<等々力短信 第1122号 2019(令和元).8.25.>2019/08/25 05:42

 上野の国際子ども図書館(国立国会図書館の支部)をご存知だろうか。 ここは幕末三 度洋行した福沢諭吉が西洋列強の「ビブリオテーキ」を紹介し、明治政府の文部官僚永井 久一郎(荷風の父)が近代国家には国立図書館が必要だと奔走し、曲折を経てようやく明 治39(1906)年に開館した「帝国図書館」の理念と建物を受け継いでいる。 中島京子さ んの小説『夢見る帝国図書館』(文藝春秋)は、何度も図書館の費用が戦費に食われ、リベ ラルアーツと国威発揚的国策が衝突する、苦難の歴史を背景にして描かれた。 アメリカ 占領下の昭和21(1946)年2月4日、ジープを駆ってGHQ職員のアメリカ人女性ベアテ・ シロタ(22)が「憲法関連の本」を探しにやって来る。 マグナ・カルタから始まる一連 のイギリスの本、ワイマール憲法、北欧諸国の憲法を始め、ありったけの憲法関連書籍を 借り出す。 以後の運命の9日間で、日本国憲法の「GHQ草案」を作り上げた25人の民 生局員にとっての、最重要参考文献だった。 中島京子さんは、これは帝国図書館にとっ て、最後にして最大の仕事だったかもしれない、と書く。

実はベアテ、隣の東京音楽学校でピアノ教授をしたレオ・シロタの娘で、5歳から15歳 まで日本で暮していた。 シロタといっても、日系人ではなく、ウクライナ出身のユダヤ 人だ。 昨年6月に亡くなった藤原智子監督にドキュメンタリー映画『ベアテの贈りもの』 (2004年)がある。 レオ・シロタは全ヨーロッパの楽壇で「フランツ・リストの再来」 と言われ、世界的ピアニストとして演奏会を展開していたが、1926(昭和元)年満洲に赴 き、そこで会った山田耕筰に誘われて日本公演、一年間滞在する(ベアテは5歳)。 これ を機会に1929(昭和4)年、東京音楽学校教授として招かれ、17年間、井口基成や園田高 弘など名ピアニストの育成と演奏活動で、日本の楽壇に貢献した。 演奏家としても日本 で人気が高く、またユダヤ人迫害でパスポートを剥奪されたため、夫妻で戦後の1946(昭 和21)年まで日本に留まった。 戦争末期は外国人強制疎開で軽井沢にいた。 ヨーロッ パに残ったレオの兄弟は、悲劇的な最期をとげる。

 この間、娘のベアテは15歳でアメリカに渡りオークランドの全寮制女子大学ミルズ・カ レッジで学び、卒業の1945(昭和20)年アメリカ国籍を取得、12月、GHQ民間人要員と して来日、大戦中音信不通だった両親と再会できた。 ベアテは日本国憲法草案作成の一 員となり、昭和初期の日本で、女性たちの抑圧された状況を目の当りにして育ったことも あって、人権に関する14条と男女平等に関する24条の原案の一部を書いた。 第二次世 界大戦後の74年間を、日本人が平和とそこそこの繁栄の内に過ごせたのには、日本国憲法 の存在があったことを忘れてはならないだろう。